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【フレデリック マル香水聖典】美を極めし、アンバランスで危険な香り

フレデリック・マル
©FREDERIC MALLE
フレデリック・マルブランド香水聖典
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フレデリック マル

【特別監修】Le Chercheur de Parfum様

 

Frederic Malle 「エディション ドゥ パルファム(香りの出版社)」という精神が掲げられた、このブランドは、2000年6月6日に設立される。調香師の名前が本の作者のようにパッケージとボトルに記載される斬新なスタイルで、ニッチ・フレグランス・ブームの立役者となる。

以後、「カーナル フラワー」「ポートレイト オブ ア レディー」「ムスク ラバジュール」を筆頭に、2007年には、女帝ソフィア・グロスマンが満を持して登場する。リリースされるフレグランスは、どれも大衆フレグランスとは、一線を画するフレグランスである。2014年、エスティローダー・グループの傘下に入る。

芸術とは本能的に感動させるか、あるいは理性的に感動させるかのどちらかだが、ごく稀に本能的かつ理性的に感動させることがそうなれば素晴らしい。

エドモン・ルドニツカ

代表作

アン パッサン(2000)
ムスク ラバジュール(2000)
ル パルファム ドゥ テレーズ(2000)
ビガラード コンサントレ(2002)
カーナル フラワー(2005)
アウトレイジャス(2007)
ポートレイト オブ ア レディー(2010)
ドリス ヴァン ノッテン(2013)
スーパースティシャス(2016)
ローズ & キュイール(2019)

フレデリック・マルの香水一覧

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くたばれ!大衆向けフレグランス

©FREDERIC MALLE

香水はサイレント・ランゲッジです。それはあなた自身について言葉で表せない部分を相手に伝える役割を担います。

フレデリック・マル

本物の花や果実の香り、キャンドルの香り、アロマオイルの香りと、香水の違いは、香水はパーソナルなものだということです。それは、人の肌の上に乗ることによってはじめて存在することになり、香りはその人の一部になるのです。

フレデリック・マル

フレデリック・マルという人は、後述しますが、日本のファッション・メディアが想像している以上に、ヨーロッパやアメリカにおいて巨大な存在です。その理由は、まずその血統による部分がとても大きいと言えます。

  1. 祖父は、パルファン・クリスチャン・ディオールの創設者であり、ディオールのグランヴィル時代からの幼馴染。
  2. 母親は、パルファン・クリスチャン・ディオールのアート・ディレクターであり、セルジュ・ルタンスに影響を与えた女性。
  3. 叔父は、20代で『死刑台のエレベーター』を撮ったフランスを代表する映画監督ルイ・マル(1932-1995)。

つまり、フレデリック・マルとは、香水界の貴公子(サラブレッド)なのです。母親は後に再婚し、伯爵夫人になるのですが、生まれながらにホンモノの人とモノと香水に囲まれて生活してきた人だからこそ、大衆向けに作られたつまらないフレグランスに対する革命を始動することが出来たのです。

1990年代、フレグランス市場は、死にかけていました。フォーカスグループと市場調査チーム主導で、数週間で生み出されたような、免税店で販売するのにうってつけな大衆向けフレグランスが至るところで販売されていました。それはまるでマクドナルドのようなものでした。

そういったフレグランスの予算は、ボトルの形や広告イメージにつぎ込まれ、香りそのものは品質は低く、調香師の役割は、コスト削減を調整するための技術者といった程度のものでした。

ですから、街には、フルーティ・フローラルや飽き飽きするようなサッカリン・グルマンの香りが溢れかえっていたのです。そして、これひとつさえ毎日つけていたらもう大丈夫!モテます。といった安っぽいキャッチフレーズが連呼されていたのです。

フレデリック・マル

そんなフレグランス業界に反旗を翻すが如く立ち上がったのがフレデリック・マル2000年6月6日の革命でした。フレデリックは、1944年にノルマンディー上陸作戦が行われた日をあえて選んだのでした。

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調香師という存在に初めて光を当てた男

©FREDERIC MALLE

©FREDERIC MALLE

ずっとゲランのルール ブルーだけを愛していた私が、フレデリック・マルに出会い、不貞を犯すようになりました。

カトリーヌ・ドヌーヴ(彼女はマルの著書の序文さえも書いているほどの友人)

リーマンブラザーズのヨーロッパのトップだった父親から資金を獲得し、18ヶ月の準備期間を経て、2000年6月6日に設立されたフレデリック・マルは、この日、フレグランスの歴史を作りました。

エディション ドゥ パルファム(香りの出版社)」という精神が掲げられた、このブランドの理念は、端的にのべると「失われた本物の香水を求めて」ということです。

フレデリックの叔父ルイ・マルが24歳の頃、1956年に「Nouvelles Editions de Films」という映画会社を設立しています。この名の影響を受けています。

2000年まで、あらゆるフレグランスは、ブランドが作り出したものであるというイメージ販売に終始していました。調香師は、それまでは全く影の存在でした(フレグランスのローンチ・パーティーにも呼ばれることもなかった)。そんな調香師という存在に、マルは、はじめて光を当てたのでした。

1985年9月1日に、フランスのヴォー=ル=ヴィコント城において、イザベル・アジャーニをキャンペーン・モデルにディオールの「プワゾン」の一大キャンペーンが行われ、フレデリックも友人と参加していました。しかし、この時、調香師のエドゥアール・フレシェが招待されていない事を知り、大いにショックを受けたのでした。

そして、フレグランスの調香に関しても、ブランドが提示するイメージに沿って作らせるのではなく、調香師それぞれが本当に生み出したかった=完全なる創造の自由から生まれたものを予算や期限、香料に制限を設けず創造してもらったのでした。(史上初めて、調香師自身が本当に作りたい香りが生み出された瞬間でした)。

調香師たちは、まるで小説を書いたり、芸術作品を創作したりするかのように、作品に取り組むことができます。お金は全く問題ではありません。私たちのブランドでは、彼らは最も良い原料だけを使うことが出来、真のアートが完成するまで止めなくて良いのです。

フレデリック・マル

それはまた、コスメにおけるメイクアップアーティストや、スキンケアにおける医師とのタイアップと同じく、マーケットを拡大する原動力にもなりました。そして、この後、エルメスにおけるジャン=クロード・エレナという専属調香師の伝説が生み出される導火線に火をつけることにもなるのでした。

こうして、世界中の人々は、広告やボトルデザインやブランド力から解放され、調香師や香りのストーリーに注意を払うようになったのでした。

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なぜこのボトルデザインなのか?

©FREDERIC MALLE

©FREDERIC MALLE

もし私が調香師だったら、すべてを香水のなかに入れる、外側にはなにも見せない…ものすごく高価なものにして、真似されないようにしたいわ。

ココ・シャネル

ボトル・デザインはバウハウス(無駄なものを削ぎ落とす。ルイ・ヴィトンのロゴにも影響を与えた)からインスパイアされたものです。

写真家アーヴィング・ペンとの会話がきっかけとなりました。1999年にクリスチャン・ラクロワのためにコンサルタントをしていたフレデリックが、貝殻をモチーフにしたボトルデザインを採用した時、アーヴィングがボトル撮影しました。

クリスチャン・ラクロワ(1999)

この時、アーヴィングはそのボトルデザインが好きではなく、モダンなボトルデザインはどうあるべきかをフレデリックに話してくれたのでした。

当初フレデリックは、フレグランス毎に違うボトルデザインにする予定だったのですが、重要なのは入れ物ではなく中身に注意を向けてもらうことだと考えを改め、シンプルな外見で統一したのでした。

キャップは、かつての偉大な香水の多くが使用し、発売当時はシャネルしか使用してなかったベークライトが選ばれました。

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ジャン=クロード・エレナは語る

©FREDERIC MALLE

©FREDERIC MALLE

まだ人々が、香水は誰が作っているのかと言うことに興味のない時代でした。先輩たちは、ただただ沢山の香水を作ることに追われていました。私は、同じような香りを沢山作る仕事はしたくないと思っていました。

私は、芸術家になりたかった。だから、ひとつひとつの香りを創造することが出来る環境を生み出していくためには、誰が香水を作っているかということも含めた香水産業の秘密主義を無くしていかないといけないと考えていました。

そんな時、フレデリック・マルが私に「調香師の名前がボトルに刻まれた香水を作るんだ」君も協力してくれないかと言ってきたのでした。私は、心底驚かされると同時についにこの時が来た!と感じました。

それははじめて調香師が生み出すものに対して責任を感じる瞬間。つまり、ブランドの香りではなく、私の香りが世界中に知れ渡る時代がはじまるということでした。多くの調香師は、躊躇したが、私は嬉しくてしょうがなかった。

私は、フレデリックに対して、感謝の気持ちしかありません。彼がこの世界ではじめて調香師という存在に光を当ててくれたのだから。

ジャン=クロード・エレナ

パッケージとボトルには、調香師の名前が本の作者のように記載されています。この史上初の試みが意味するところは、「ジャン・クリストフ」の作者がロマン・ロランであるように、100年経っても芸術品として崇められるような作品を作るのだという崇高なる使命感の表れでした。

ブランド名よりも作品名、調香師の名が目立つように、作品名が一番大きく、その次が調香師名、ブランド名は最も小さく配置されています。ちなみに、初期のボトルには、ブランド名すら書いておらず、まさしく調香師の作った香水コレクションを体現していました。

2000年6月6日、パリ7区のグルネル通りに、9つの香り(ナインクラシックス)と共にブティックがオープンしました。そして、生み出されたのが、バーグドルフ・グッドマンにも設置されたセント・チェンバー(別名:香りのコラム)だったのです(エリミネーション・チェンバーのようでカッコいい!)。

上の写真は、セント・チェンバーを実演するフレデリック・マルです(ロシアにて)。この何とも言えないハッタリズムもフレデリック・マルの魅力です。最上級な世界観にもっとも重要なのは75%の真実と25%のハッタリなのです。

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ディオールの香りから生まれてきた男

©FREDERIC MALLE

あなたは、村の真ん中に、教会を戻したのだ。

ジャック・ポルジュがフレデリック・マルに言った一言。

フレデリック・マルは1962年7月17日(蟹座)にパリで生まれました。

母方の祖父はクリスチャン・ディオール(1905-1957)の幼馴染(生後二ヶ月からの仲であり、グランヴィルで共に育つ)であり、フランソワ・コティの右腕となり、彼の死後、コティ社のジェネラル・マネージャーをつとめたセルジュ・エフトレー=ルイシュ(1905-1959、娘の結婚式の一ヶ月前に亡くなった)でした。

1947年にパルファン・クリスチャン・ディオールを創設し、CEOになりました。

クリスチャン・ディオール(左)と共に。1956年に「ディオリシモ」を発表したとき。

母親のマリー・クリスティーヌ・ヘフラー=ルイシュ(1938-、父セルジュは1959年に死去し、マリーは遺産を相続した)は、ディオールのアーティスティック・ディレクターでした(18歳のとき研究所員としてそのキャリアをはじめる。1967年にディオールに来たセルジュ・ルタンスにフレグランスのイロハを教え、メイクアップ部門を各ブランドに先駆け創設した)。

ちなみに母親マリー・クリスティーヌは、1979年1月に離婚し、同年11月ににザイン=ヴィトゲンシュタイン家の王子と再婚し、伯爵夫人になっています。

彼女は47年間ディオールで働いており、その間に「オー ソバージュ」「プワゾン」「ファーレンハイト」「ジャドール」のクリエイションにも大きな役割を果たしました。

フレデリックとお母さん。©FREDERIC MALLE

1965年、父親と。©FREDERIC MALLE

一方、父親のジャン=フランソワ・マルは、ハーバード大学を卒業し、兄弟であり、偉大なる映画監督ルイ・マルと共に映画関係の仕事に従事していました。後に、ヨーロッパのリーマンブラザーズのマーチャント・バンカーになりました。フレデリックがブランドを創立するときに大いに手を貸してくれました(ただし、アルコール依存症で、稀代のプレイボーイだった)。

私が若かった頃、たくさんの女性に恋しました。でも、残念なことに、その頃の私は全然魅力的ではなかったので、誰にも相手にされませんでした。そして、今、私はリベンジしているのです。世界中の魅力的な女性の肌に私の香りを浸透させることによって(笑)

フレデリック・マル

そんな芸術家肌の裕福な両親の下で生まれたフレデリックの香りの最初の記憶はふたつあります。

ひとつは、彼の幼少期のアパートの寝室はかつてジャン=ポール・ゲランが使用していたものであり、壁には「夜間飛行」の香りが染み付いていたその記憶です。

カルロス・ベナイムと作った、空間の雰囲気を瞬時に変えることができる「カフェ ソサエティ パフューム ガン」は、アンバー調の温かみのある香りです。子供の頃、実家で両親が使っていた(今は廃盤になった)ゲランの製品の記憶を元に、再現した香りでした。

そして、もうひとつは、ディオールの「オー フレッシュ」を母が水で薄めて、マル兄弟(1歳年下の弟がいる)のために作られた彼女が〝ベビー ディオール〟と呼んでいた香りの記憶です(この香りを元に、1970年に世界最初のベビー用フレグランス「ベビー ディオール」が誕生した)。

次第にフレデリックは、少年期から、母親のディオールの香水の実験台をつとめるようになります。そして、青年期には、「オーソバージュ」を愛好するようになったのでした。

ローリング・ストーンズとバッハを聴いて育ったというフレデリックは、シャネルのアート・ディレクターを長らく勤めたジャック・エリュに憧れ、1982年からニューヨーク大学で美術史と経済学を学ぶことになります。

そして、在学中ファッション・フォトグラファーになるためにアシスタントをしました。この頃はまだフレグランスに対する専門の知識をマルは全く持ち合わせていませんでした。