フレデリック・マル

【フレデリック マル香水聖典】ラグジュアリー・フレグランスの最高峰

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フレデリック・マルの香水の全て(3ページ)

All About Frederic Malle
フレデリック・マルの香水一覧

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くたばれ!大衆向けフレグランス


香水はサイレント・ランゲッジです。それはあなた自身について言葉で表せない部分を相手に伝える役割を担います。

フレデリック・マル

フレデリック・マルという人は、後述しますが、日本のファッション・メディアが想像している以上に、ヨーロッパやアメリカにおいて巨大な存在です。その理由は、まずその血統による部分がとても大きいと言えます。

  1. 祖父は、パルファン・クリスチャン・ディオールの創設者であり、ディオールのグランヴィル時代からの幼馴染。
  2. 母親は、パルファン・クリスチャン・ディオールのアート・ディレクターであり、セルジュ・ルタンスに影響を与えた女性。
  3. 叔父は、20代で『死刑台のエレベーター』を撮ったフランスを代表する映画監督ルイ・マル

つまりは、フレデリック・マルは、香水界の貴公子なのです。母親は後に再婚し、伯爵夫人になるのですが、生まれながらにホンモノの人とモノと香水に囲まれて生活してきた人だからこそ、大衆向けに作られたつまらないフレグランスに対する革命を始動することが出来たのです。

1990年代、フレグランス市場は、死にかけていました。フォーカスグループと市場調査チーム主導で、数週間で生み出されたような、免税店で販売するのにうってつけな大衆向けフレグランスが至るところで販売されていました。それはまるでマクドナルドのようなものでした。

そういったフレグランスの予算は、ボトルの形や広告イメージにつぎ込まれ、香りそのものは品質は低く、調香師の役割は、コスト削減を調整するための技術者といった程度のものでした。

ですから、街には、フルーティ・フローラルや飽き飽きするようなサッカリン・グルマンの香りが溢れかえっていたのです。そして、これひとつさえ毎日つけていたらもう大丈夫!モテます。といった安っぽいキャッチフレーズが連呼されていたのです。

フレデリック・マル

そんなフレグランス業界に反旗を翻すが如く立ち上がったのがフレデリック・マル2000年6月6日の革命でした。

調香師という存在に、はじめて光を当てた男。

ずっとゲランのシャマードだけを愛していた私が、フレデリック・マルに出会い、不貞を犯すようになりました。

カトリーヌ・ドヌーヴ(彼女はマルの著書の序文さえも書いているほどの友人)

18ヶ月の準備期間を経て、2000年6月6日に設立されたフレデリック・マルは、この日、フレグランスの歴史を作りました。

エディション ドゥ パルファム(香りの出版社)」という精神が掲げられた、このブランドの理念は、端的にのべると「失われた本物の香水を求めて」ということです。

パッケージとボトルには、調香師の名前が本の作者のように記載されています。この史上初の試みが意味するところは、「ジャン・クリストフ」の作者がロマン・ロランであるように、100年経っても芸術品として崇められるような作品を作るのだという崇高なる使命感の表れでした。

2000年まで、あらゆるフレグランスは、ブランドが作り出したものであるというイメージ販売に終始していました。調香師は、それまでは全く影の存在でした(フレグランスのローンチ・パーティーにも呼ばれることはなかった)。そんな調香師という存在に、マルは、はじめて光を当てたのでした。

そして、フレグランスの調香に関しても、ブランドが提示するイメージに沿って作らせるのではなく、調香師それぞれが本当に生み出したかった=完全なる創造の自由から生まれたものを香料や抽出プロセスに制限を設けず創造してもらったのです。(史上初めて、調香師自身が本当に作りたい香りが生み出された瞬間です)。

それはまた、コスメにおけるメイクアップアーティストや、スキンケアにおける医師とのタイアップと同じく、マーケットを拡大する原動力にもなりました。そして、この後、エルメスにおけるジャン=クロード・エレナという専属調香師の伝説が生み出される導火線になったのでした。

こうして、世界中の人々は、広告やボトルデザインやブランド力から解放され、調香師や香りのストーリーに注意を払うようになったのでした。

同年、パリ7区のグルネル通りにブティックもオープンしました。そして、生み出されたのが、バーグドルフ・グッドマンにも設置されたセント・チェンバーだったのです(エリミネーション・チェンバーのようでカッコいい!)。



セント・チェンバーを実演するフレデリック・マル(ロシアにて)。この何とも言えないハッタリズムもフレデリック・マルの魅力です。最上級な世界観にもっとも重要なのは75%の真実と25%のハッタリなのです。

ディオールの香りから生まれてきた男


あなたは、村の真ん中に、教会を戻したのだ。

ジャック・ポルジュがフレデリック・マルに言った一言。

フレデリック・マルは1962年7月17日にパリで生まれました。母方の祖父はクリスチャン・ディオールの幼馴染(グランヴィル時代からの)であり、1947年にパルファン・クリスチャン・ディオールを創設し、CEOになったセルジュ・エフトレー=ルイシュでした。

クリスチャン・ディオール(左)と共に。1956年に「ディオリシモ」を発表したとき。

母親のマリー・クリスティーヌ・ヘフラー=ルイシュ(1938-、父セルジュは1959年に死去し、マリーは遺産を相続した)は、ディオールのアーティスティック・ディレクターでした(18歳のとき研究所員としてそのキャリアをはじめる。1967年にディオールに来たセルジュ・ルタンスにフレグランスのイロハを教えた)。

ちなみに母親マリー・クリスティーヌは、1979年にザイン=ヴィトゲンシュタイン家の王子と再婚し、伯爵夫人になっています。彼女は47年間ディオールで働いており、その間に「オーソバージュ」「プワゾン」「ファーレンハイト」「ジャドール」のクリエイションにも大きな役割を果たしました。

一方、父親のジャン=フランソワ・マルは、兄弟の偉大なる映画監督ルイ・マルと共に映画関係の仕事に従事していました。

私が若かった頃、たくさんの女性に恋しました。でも、残念なことに、その頃の私は全然魅力的ではなかったので、誰にも相手にされませんでした。そして、今、私はリベンジしているのです。世界中の魅力的な女性の肌に私の香りを浸透させることによって(笑)

フレデリック・マル

そんな芸術肌の裕福な両親の下で生まれたフレデリックの香りの最初の記憶はふたつあります。

ひとつは、彼の幼少期のアパートの寝室はかつてジャン=ポール・ゲランが使用していたものであり、壁には「夜間飛行」の香りが染み付いていたその記憶です。

そして、もうひとつは、ベビー・ディオールの衣服に振りかけられた「オー フレッシュ」という贅沢な記憶です。やがて、少年期から、母親のディオールの香水の実験台をつとめるようになります。そして、青年期には、「オーソバージュ」を愛好するようになったのでした。

ローリング・ストーンズとバッハを聴いて育ったというフレデリック・マルは、シャネルのアート・ディレクターを長らく勤めたジャック・エリュに憧れ、ニューヨーク大学で美術史と経済学を学ぶことになります。

そして、在学中ファッション・フォトグラファーになるためにアシスタントをしました。この頃はまだフレグランスに対する専門の知識をマルは全く持っていませんでした。

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