クリスチャン・ディオール
Christian Dior クリスチャン・ディオール(1905-1957)が1946年12月16日に、モンテーニュ通り30番地でメゾンを創業した、すぐ後に「ミス ディオール」を発表し、1948年にニューヨークにパルファン・クリスチャン・ディオール社を設立。
1956年「ディオリシモ」によるスズラン革命。1966年「オー ソバージュ」によるヘディオン革命(ボトルの中にも輝きを与えた)。そして1985年「プワゾン」による毒リンゴ革命により、毒をもって世界を制する。
さらに、1999年「ジャドール」による黄金調教革命で、史上初めて、黄金に香りを与え、世界的な大ヒット作となる。そんな勢いの中、2006年よりシャネルで29年間ジャック・ポルジュの補佐をつとめていたフランソワ・ドゥマシーが初代専属調香師に就任する。
現在は、2021年10月より、二代目調香師(ディオール パフューム クリエイション ディレクター)としてフランシス・クルジャンが就任し、ディオール帝国は、絶頂期を迎えようとしているのです。
代表作
ミス ディオール(1947)
ディオリシモ(1956)
オー ソバージュ(1966)
プワゾン(1985)
ファーレンハイト(1988)
デューン(1991)
ヒプノティック プワゾン(1998)
ジャドール(1999)
ディオール アディクト(2002)
ボア ダルジャン(2004)
ミス ディオール シェリー(2005)
ディオール オム(2005)
ソヴァージュ(2015)
JOY BY DIOR ジョイ(2018)
人気シリーズ
ジャドール シリーズの全て
ソヴァージュ シリーズの全て
ディオール アディクト シリーズの全て
ディオールオム シリーズの全て
プワゾン シリーズの全て
ミス ディオール シリーズの全て
歴代調香師
フランソワ・ドゥマシー ディオールの初代専属調香師
フランシス・クルジャン 調香界のプリンス
チンギス・ハーン以来の世界帝国を築いたディオール
パンデミック前夜、日本全国の百貨店のコスメカウンターでは、資生堂などの国産コスメ・ブランドがインバウンド景気でこの世の春を謳歌していました。そんな情景を尻目に、百貨店のコスメフロアーの真の女王となるべく、2つの外資系コスメ・ブランドが、前哨戦を繰り広げていました。シャネルとディオールでした。
この二つのラグジュアリー・ブランドには、パリ発祥のファッション・メゾンであるという華麗なるバックグランドが存在します。そして、素晴らしい香水の遺産と、マーケティング・モンスターによって生み出された、ミーハー層も見事に取り込んでいく、数々のマス・フレグランスを持つという二面性を、持ち合わせています。
どのような分野に関してもそうなのでしょうが、”本物”の証明とは、”本物”が分かる層だけでなく、”本物”を理解することが出来ない層のハートもしっかり掴まえてこそ果たされるものなのです。そしてコロナが明ける寸前の2022年半ばには、資生堂などの国産コスメ・ブランドは完全に駆逐され(もしくは自滅し)、さらに、シャネルはディオールに女王の座を明け渡すことになったのでした。
現在、ディオールは、コスメ業界において、日本だけでなく世界を制覇することに成功しました。そんなディオールのブランド創業者であるクリスチャン・ディオール(1905-1957)と、フレグランスの関わりについて少し説明していきましょう。
本気でフレグランスを愛した男=クリスチャン・ディオール
ムッシュ・ディオールは、孤独を愛し、「田舎と家族と美食と花」を愛する、どちらかというと社交的ではなく寡黙な人でした。そんな彼にとって、至福の瞬間は、子供時代からグランヴィルの邸宅≪レ リュンブ≫の英国式庭園で、母親と親しんできたジャスミンやローズなどの花々を育てることでした。
そして、そういった花々が彼のクリエイションに大いなる影響を与えていきました(ニュールックは、元々コロール(花冠)ラインと呼ばれていた)。
1946年12月16日に、モンテーニュ通り30番地でメゾンを創業したすぐ後に、ファースト・フレグランスを発表したのは「ファッションとは、服だけでは完結しない」という彼自身の哲学ゆえでした。
ムッシュはコレクションにおいて、髪型、メイクアップ、バッグ、シューズ、所作、そして、香りといった全てに拘りを見せた史上初めてのファッション・デザイナーでした。
だからこそ、彼にとって、最初のオートクチュール・コレクションをデザインするのと同じくらい、最初のフレグランスは重要なのでした。かくして「ミス ディオール」は1947年に産声をあげるのでした。
私のデザインしたドレスが、ひとつひとつのボトルから抜け出てきたように、全ての女性を完璧な女性らしさで包み込むために、この香水を私は創りました。
クリスチャン・ディオール
1947年にディオールは、モードとフレグランスに革命を起こした。
私は服をデザインする人だ。しかし、女性のシルエットは、香りがついて初めて完成すると考えている。
クリスチャン・ディオール
-13℃という厳寒の中行われた、1947年2月12日の伝説のニュールック・ショー(発売前の「ミス ディオール」をサロン中に大量に吹きかけた)でモード界にセンセーションを巻き起こしたムッシュ・ディオールは、1947年10月に発売した「ミス ディオール」との相乗効果により、シャネル不在のモード界において、フレンチモードを体現する存在に、一瞬にして駆け上ることになりました。
ディオールの革命は、ニュールックとミス・ディオールによって生み出されたのでした。
それは、オシャレは、ミセスのためだけのものではなく、ミス(=マドモアゼル)のためにも存在するということ。そして、マドモアゼルではなく、ミスという名をつけることにより、モードの中心はもはやパリではなく、アメリカになるであろうとムッシュは予言したのでした。
まさにその予言通りに、創立から5年間におけるディオール社の総売上高の50~60%はアメリカ市場の収益によって占められてゆきました。
ディオールの香水一本は、ドレス一枚に匹敵するのだ!
「ミス ディオール」発売後の1948年に、ムッシュ・ディオールは、ニューヨークにパルファン・クリスチャン・ディオール社を設立しました。フレデリック・マルの祖父にあたるセルジュ・エフトレー=ルイシュ(1905-1959、クリスチャンの幼馴染)がCEOに就任しました。それは衣服と香水の販売の相乗効果により、あらゆる階層に対してブランディングを高める戦略でした。
女性の頭の天辺から足の爪先までディオール・ファッションで飾って頂き、その締めくくりとして香水を振りかけることによって完成するという、ディオールを愛する女性のための香りとしての位置づけでした。
このディオールの香水のブランディングは、結果的には、最後の一本から、最初の一本(ディオール・ブランドに憧れる人々が所有するはじめの一歩)へと変わっていくようになります。そして、最終的には、唯一の一本(ディオールに対する憧れをこの一本の所有で完結させる)としてのラグジュアリー・ブランドにおけるフレグランスの役割が定着し、今に至ります。
ちなみにムッシュは、週末に訪問する休息の地としてミリィ・ラ・フォレの≪水車小屋≫を1948年に購入した後、1951年に別荘ラ コル ノワール城を購入し、大自然の中でローズやジャスミン、スズランを育てることに至上の喜びを感じるようになりました。
この女性を人工的に美しくしてきた男性が、自然の中に安らぎを見出した部分は、『天使と悪魔』が同居するディオールというブランドの根っこにある精神のように思えます。
ディオールの魅力とは、もっとも汚らわしく、もっとも美しい存在。つまりは、ほうっておけない魅力が、脈々と受け継がれているのです。
20世紀のディオールのフレグランス五大革命。
20世紀にディオールは、香りの世界において、5つの革命を成し遂げることになります。
- 1947年、「ミス ディオール」によるシプレ革命。1940年代に人気のあった化粧品のような香りとは対照的な、アルデハイドを軸にしたグリーン・アニマリックなシプレノート。
- 1956年、「ディオリシモ」によるスズラン革命。エドモン・ルドニツカによる世界ではじめての芸術的なスズランの香り(=この瞬間、スズランが言葉を持ちました)。
- 1966年、「オー ソバージュ」によるヘディオン革命。史上初めて合成香料ヘディオンを使用した香りであり、〝ジャスミンの情熱〟を注ぎ込み、そのボトルの中にも輝きを与えた。
- 1985年、「プワゾン」による毒リンゴ革命。毒をもって世界を制した香り。
- 1999年、「ジャドール」による黄金調教革命。史上初めて、黄金を香りにしたフレグランス。
特に1981年にパルファン・クリスチャン・ディオールの社長に就任したモーリス・ロジェは、ディオールのフレグランス帝国の中興の祖として大いに貢献を果たしました。
エディ・スリマンによる最強最後のフレグランス革命
(1995年から2004年にかけて)ディオールのパルファム部門のグローバル・マーケティング・ディレクター、サビーナ・ベッリは、1999年に「ジャドール」により見事アメリカ市場を再度席巻することに成功しました。その勢いの中、1997年に「デューン プールオム」が果たせなかった、メンズ・フレグランス市場へ再挑戦したのが、2001年に発売された「ハイヤー」でした。
あまり知られていないのですが、2001年(2001-2002秋冬のパリコレクションから)にディオールオムをスタートさせたエディ・スリマン(1968-)がこの香りに深く関わっています。彼は元々1997年にイヴ・サンローラン・リヴ・ゴーシュのメンズラインのクリエイティブディレクターに抜擢されるも、2000年にイヴ・サンローランがグッチ・グループに買収され、ディオールに移籍することになりました。
そして2000年から2001年の間に、サビーナにより彼はこの香りの責任者に任命されたのでした。ファッション・デザイナーとフレグランス開発が密接に結びついたのは、ディオールの歴史の中で、ムッシュ・ディオール以来の出来事でした。かくしてこの作品により、エディは人生で初めてフレグランスの世界に関わることになるのでした。
結果的には、ディオールのメンズ・フレグランスを〝もっと高い〟領域へと引き上げることは出来なかった(ヒットはしなかった)のですが、2004年にフレグランスの高級ラインを生み出していく源流となりました。このコレクションの名を「ディオール・ラ・コレクシオン・プリヴェ」と申します。まさに「香りをモードへと進化させた」瞬間でした。
以後、ラグジュアリー・ブランドがファッション・フレグランスだけでなく、高級ラインを生み出していくようになりました。2018年に「ディオール・ラ・コレクシオン・プリヴェ」は、「メゾン クリスチャン ディオール」として、独自店舗展開することになり、今では、ラグジュアリー・フレグランスの盟主たらんとしています。
ついにディオール帝国はメンズ・フレグランスにおける覇権を手にしました。覇権への道は、エディ・スリマンによるディオール・オムが社会現象と言えるほどに大旋風を巻き起こし、2003年夏に3年間の契約延長をし、メンズフレグランスのクリエイティブ・ディレクターも兼任することになったことからはじまりました。
「ディオール・ラ・コレクシオン・プリヴェ」を生み出した後、ディオール・オム初のメンズ・フレグランス「ディオール オム」を、調香界の若き貴公子オリヴィエ・ポルジュとタッグを組み、創造したのでした。
アイリスを男性用フレグランスのために使用すべく、シャネルのNo.19からヒントを得た画期的な香りであり、アイリスの女性らしさとベチバーの男性らしさが巧みにブレンドされています。まさにメンズ・フレグランスにフローラル旋風を巻き起こすきっかけとなりました。
LVMH帝国のフレグランス部門を再建した男
2008年にディオールははじめて専属調香師を立てることになりました。フランソワ・ドゥマシーの登場です。彼はシャネルで29年間ジャック・ポルジュの補佐として働いてきたというバックグラウンドを生かし、シャネルの「ブルー ドゥ シャネル」(2010)の成功を更に凌駕するメンズ・フレグランス「ソヴァージュ」を誕生させたのでした。
この「ソヴァージュ」の成功により、彼氏の部屋にある香水として、世界中の女性に、ディオールの魅力を潜在意識の中に埋め込んでいくことに成功したのでした。
ディオールの2020年代の飛躍は、間違いなく「ソヴァージュ」によって扉が開かれたと言っても過言ではありません。「ソヴァージュ」こそは、今では世界制覇を果たしたディオールにとってのアレキサンダー大王であり、チンギス・ハーンなのです。
ちなみにフランソワ・デュマシーは、ディオールとシャネルの香りの違いについて、以下の如く表現しています。
シャネルは花が好きではなかった。そのためシャネルの香水は、フローラルよりも抽象的なのです。そして、ディオールは、ムッシュ・ディオールが花を愛していたので、すべてフローラルなのです。
蘇える金狼=蘇える調香界のプリンス・クルジャン
2021年10月に二代目調香師(ディオール パフューム クリエイション ディレクター)としてフランシス・クルジャンが就任しました。彼こそが、2004年にエディ・スリマンの指揮の下で、メゾン クリスチャン ディオールの三本の矢(「ボア ダルジャン」「コローニュ ブランシュ」「オー ノワール」)のうちの二つの矢を創造した人でした。
何よりも興味深いのは、クルジャンは「ジャドール」誕生の1999年に、まさにその場にいたのでした。しかも、その誕生に関わったのではなく、それを羨望と嫉妬の混じり合う感情の中で、ただ傍観する立場にいたのでした。
1993年にクルジャンは、(今はジボダンに吸収された)クエスト・インターナショナルに入社しました。その一年後に「ジャドール」を後に生み出すことになるカリス・ベッカーが入社しました。1995年に「ル マル」を生み出しスター調香師の道を歩いていたクルジャンのずっと後ろにベッカーはいました。
しかし、あるプロジェクトが彼女を香水界の寵児にするのでした。世紀末の1999年に誕生した「ジャドール」でした。その成功は「ル マル」の比ではなく、クルジャン自身が述べているように、ディオールで名作を残したいという強い願望を抱くようになったのでした。
「ジャドール」開発当時、クルジャンは、ベッカーの隣の部屋で働いていました。そして時々彼女の試作品に対して感想を述べたりしていました(ただし、クルジャンは、私は「ジャドール」のプロジェクトに参加していないとはっきり断言しています)。
かくして、クルジャンはディオールに戻ってきました。そして、ディオール帝国は、まさに今、絶頂期を迎えようとしているのです。