オードリー・ヘプバーンのすべて【1929-1950】(全2ページ)
女性から見て本当に魅力的な女性とは、自分のトレードマークのスタイルを持っている女性です。一方、女性から見て残念な女性は、ファッションのトレンドに振り回され、スタイルをころころ変えていく女性です。
ファッション・モデルがスタイル・アイコンになり難いのは、その職業柄、スタイルを表に出しにくいためです。一方、女優やシンガーがスタイル・アイコンになり得るのは、まさにトレードマークのスタイルを繰り返し示すことが出来るからなのです。
もし、日本人女性にとって、〝永遠のスタイル・アイコン〟の名を三人挙げよと問うたならば、その中の一人として、必ず含まれるのがオードリー・ヘプバーンです。女性ファッション誌においても、彼女ほど引用される女性は、他に存在せず、日本人女性と非常に相性の良い〝美の基準〟になってくれる人なのです。
そして、ファッション感度が高いと周囲に思われたい、芸能人やインスタグラマーにとっても、たとえ彼女の映画をほとんど見ていなくても、〝大好きな映画は「ティファニーで朝食を」です〟と書けば、抜群の効果を生み出せる存在。
かつて、あのマリア・カラスが、31kgのダイエットを11ヶ月で決心するきっかけを作った女性。それが、オードリー・ヘプバーンなのです。それはひとたび彼女の写真や映像を見たならば、〝私もオードリーに近づきたい〟と思わせる不思議な親近感を持つ女性なのです。
オードリー・ヘプバーン出演作一覧
オードリー・ヘプバーン出演作一覧の続き世界一のファッション・アイコンの生誕
わたしは自分の容貌に途方もないコンプレックスを抱いていた。この醜い顔では、だれもわたしと結婚してくれないだろうと思っていた。
オードリー・ヘプバーン
オードリー・ヘプバーンは1929年5月4日にベルギーの首都ブリュッセルで生まれました。母親のエラは、オランダ貴族の名門の娘でした。一方、父親のジョゼフはイギリス人だったのですが、1930年代にナチズムに傾倒し、1935年5月に家庭を捨て失踪しました(オードリーは1960年代に父親と再会している)。
ちなみにオードリーの両親は、かつてミュンヘンでアドルフ・ヒトラーと会ったことがありました。
アンネ・フランクと同い年、そして、同じ場所に・・・
第二次世界大戦がはじまるまで、母エラとオードリーは、イギリスのケントに住んでいました。そして、1939年の開戦前夜に、当時中立国だったオランダのアーネム(母親の故郷)へ帰郷しました。
しかし、母エラの思惑は外れ、オランダは、1940年5月10日に、ナチスドイツに占領されました。占領下のオランダで、オードリーは、アーネム音楽院に通い、バレエを学ぶことになります。しかし、占領下の過酷な環境の中で、栄養失調と重度の貧血に悩まされるようになりました。
1944年に、アーネムは、マーケット・ガーデン作戦における激戦区となり、オランダ全土における大飢饉も発生し、オードリーはいつ死んでもおかしくない日々を解放の日まで過ごすことになりました。丁度同じ頃、オランダのアムステルダムでは、同い年のアンネ・フランクという娘が、2年間隠れ家で生活した末に、ゲシュタポに発見され、ナチスの強制収容所で15歳の若さで死にました。
オードリー・ヘプバーン映画デビュー。
1945年の第二次世界大戦終結後に、母エラとオードリーはアムステルダムへ移住しました。そして、1948年にオードリーは初めて映像作品に出演することになります。カルル・ファン・デル・リンデンとヘンリー・ジョセフソンが製作した教育用の旅行フィルム『オランダの七つの教訓』です。
この作品でオードリーは、オランダ航空(KLM)のスチュワーデスを演じました。
彼女はかわいいプリントのフロックに帽子と手袋という魅力的な服装をしていたので、私はその場で、スクリーン・テストを行うことにした。彼女を外に連れ出して、通りを横切ってカメラのほうに歩いてくるように指示した。彼女は言われたとおりにして、クローズアップの位置で立ち止まった。カメラのうしろの声が、映画に出演したいかと質問した。彼女はややけげんそうにほほえんでうなずいた。それで話は決まった。
カルル・ファン・デル・リンデン
このオードリーのスクリーン・テストの映像が作中でそのまま使用されています。この貴重な映像を見ると、オードリーは、最初からオードリーだったことがよく分かります。