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オードリー・ヘプバーンのすべて【1929-1950】|映画デビュー前夜

オードリー・ヘプバーン
オードリー・ヘプバーン
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オードリー・ヘプバーンとバレエ。

イギリスのケンブリッジ・シアターでリハーサルするオードリー。1949年。

1948年にオードリーは母エラと共にロンドンへと渡り、マリー・ランバート(1888-1982)が主宰するランバート・バレエ団から奨学金が与えられることになりました。そして、六ヶ月間マリー宅に滞在しながら、バレエを学ぶことになりました。

イギリスのバレエの歴史を作り上げたとも言えるランバートは、かつて『春の祭典』でニジンスキーのコーチをしたこともありました。

この時期、少し太っていたオードリーは、澱粉と甘いものをいっさい取らないようにして13kgのダイエットに成功しました。それ以後、オードリーは、50kg以下の体重で生涯を過ごしました(身長170cm)。

自分を客観的に見なくてはならない。いわば自分を一種の道具とみなして、何をしなければならないかを決めなくてはならない。

オードリー・ヘプバーン

オードリーは、ロンドンに出てから、更に、ファッションに敏感になりました。黒と白、それにベージュやピンクのような中間色は、「わたしの目と髪をより黒っぽく見せる傾向があるのに対して、明るい色はわたしを圧倒して色あせた感じにさせてしまう!」と考えました。そして、この頃より、背の高さが目立たないようにするためにローヒールの靴を履くようになりました。

まだまだ貧困状態だったオードリーは、スカートとブラウスを一着ずつ、靴を一足、ベレー帽ひとつしか持っていませんでした。しかし、スカーフだけは14枚持っていました。そして、スカーフを様々な用途で活用し、小さなベレー帽をあみだにかぶったり、左右に傾けたり、二つに折ったりして、最小限のアイテムで、色々なコーディネイトを生み出していました。

オードリーのファッション・センスは、ジバンシィと出会う以前から、生活の知恵により磨き込まれていたのでした。

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『ソース・タルタル』と『ソース・ピカンテ』





1949年にオードリーは、イギリスの舞台劇『ソース・タルタル』にコーラスガールとして出演しました。そして、ファッション写真家のアントニー・ボーシャンによって、ニュー・フェイスとして撮影され、イギリス版のヴォーグに掲載されることになりました。

『ソース・タルタル』の共演者と共に。1949年6月28日。

1950年に公演された『ソース・ピカンテ』のダンスのレベルは、超一流でした。そして、オードリーのダンスのレベルは、その中では最低レベルでした。

しかし、彼女には、女優生活を通じて持ち続けることになるひとつの武器が、すでに備わっていました。それは、「わたしは無力なの・・・だからあなたが必要なの」というアピール力でした。人々はそれを感じ取ると、おそらく自分が何をしているかもわからずに、ただちに反応することに彼女は気づいたのでした。

かくして信じがたいほど晴々として屈託がないあの小妖精めいた微笑が誕生したのでした。唇はほとんど裏返しになり、目はウォルト・ディズニーのキャラクターのようにあどけない笑顔に誰もが夢中になりました。そして、1951年は、オードリーの助走の一年となるのでした。

『ソース・ピカンテ』1950年4月17日。

『ソース・ピカンテ』、1949年。

オードリー、1950年。既にオードリー・スマイルは完成されていました。

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既にこの頃よりオシャレだったオードリー


オードリー・ルック<1950年> メンズジャケット
  • タータンチェックのメンズライクなジャケット、ショールカラー
  • 白のポケットチーフ
  • 黒のボウタイ
  • ペンシルスカート

1950年10月3日、舞台が終わった後に、ロンドンのウエスト・エンドで食事をするオードリー。

ナタリー・ポートマンに似ています。そして、この頃からすでにオードリーはメンズライクのジャケットを見事に着こなしていたのでした。

ちなみに、1952年に公開されたオードリーの映画『初恋』の中で、同じようなホクロのメイクをしているシーンがあります。もしかしたらこの作品は、1950年10月に撮影された作品なのかもしれません。

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『クォ・ヴァディス』のカメラ・テスト



イギリスに出てからアレック・ギネス(1914-2000、『戦場にかける橋』でアカデミー主演男優賞を受賞。『スター・ウォーズ』のオビ=ワン・ケノービ)が何かと助力してくれるようになりました。

そして、1950年にオードリーはハリウッド・デビューを目指し、マーヴィン・ルロイ監督の『クオ・ヴァディス』のリジア役のオーディションを受けましたが、受かりませんでした。

リジア役は1949年にエリザベス・テイラーで決定していましたが、降板し、デボラ・カーが演じることになりました。