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【ブロンディ伝説】デボラ・ハリーのファッション史

ブロンディ
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【ブロンディ伝説】デボラ・ハリー

Deborah Harry デボラ・ハリーは、1945年7月1日に、アメリカのフロリダ州マイアミで生まれました。僅か3ヶ月後に養女に出され、ニュージャージー州ホーソンで、貧しいながらも、里親の愛情を一身に浴び、お転婆娘として育ちます。そして、高校に入り、「高校一の美少女」に選ばれ、自分の魅力に目覚めるようになります。

常々自分の本当の母親はマリリン・モンローに違いないと確信していたデボラは、ニューヨークに旅立ち、クラブのウエイトレスやプレイボーイハウスのバニーガールをしながら、クラブ通いを続けました。そして、1974年に、盟友クリス・シュタインと出会い、「ブロンディ」を結成します。

1979年「ハート・オブ・グラス」の全米英No.1ヒットにより一躍、人気バンドになります。そして、翌年「コール・ミー」の全米英No.1ヒットにより、デボラ・ハリーは、「ニューウェイヴのマリリン・モンロー」と呼ばれるようになります。

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デボラ・ハリーの覚醒


1974年に3人組のガールズ・バンド「スティレットーズ」を結成したデボラ・ハリー(1945年- )は、そのバックバンドのメンバー、クリス・シュタインと共に、ドラマーのクレム・バークを加え「ブロンディ」を結成します。そのバンド名の由来は、デボラ・ハリーがショートパンツ姿で、むきだしの生足にスティレットヒールのミュールを履いて、ニューヨークの街角を歩いていたときに、トラックの運転手が、「へい!ブロンディ!いくらだい?」と呼びかけたことからでした。

ニューヨーク・パンクの聖地であるCBGBやマックス・カンザスシティなどの人気クラブで演奏しながら人気を高め、1976年にデビュー・アルバム『妖女ブロンディ』を発表しました。そして、ふとした偶然から「愛してほしい」がオーストラリアでNo.2のヒット曲になります(ブロンディ初のヒット曲)。

そして、2年後の1978年にセカンド・アルバム『囁きのブロンディ』を発表し、「デニスに夢中」が全英No.2ヒットとなり、ここにブロンディはデボラ・ハリーと共に覚醒を迎えるのでした。

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ロック界のマリリン・モンロー誕生


1978年に発表したサード・アルバム『恋の平行線』のために、マイク・チャップマンをプロデュースに起用したことが、ブロンディの大躍進のきっかけとなります。

恋のピクチャー」(全英12位)「ハンギング・オン・ザ・テレフォン」(全英5位)と順調にヒット曲を連発し、1979年、「ハート・オブ・グラス」において、ついに全米および全英No.1ヒットを生み出すことに成功し、ここに1979年から1981年にかけての「ブロンディ大旋風」を巻き起こすことになります。更に、同アルバムより、「サンデー・ガール」も全英No.1ヒットを記録します。

そして、リード・ヴォーカルのデボラ・ハリーも、80年代のマリリン・モンローとして、セックス・シンボルとして注目されるようになります。

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「コール・ミー」とブロンディ旋風


1979年に、前作と同じくマイク・チャップマンのプロデュースによりフォース・アルバム『恋のハートビート』を発表します。そして、このアルバムからも「ドリーミン」「涙のユニオン・シティ」「銀河のアトミック」といったヒット曲を連発。しかし、何よりも、1980年にブロンディの大いなる飛躍のきっかけになったのが、映画『アメリカン・ジゴロ』の主題歌「コール・ミー」の全米及び全英No.1ヒットによるものでした。

1980年代は、ブロンディというグループのブロンド美女が呼びかける「お金があるなら、私に電話してね」というバブリーかつ下品な掛け声と共に、はじまったと言っても過言ではないでしょう。お金に踊らされ、お金に人々が狂わせれる10年のはじまりです。

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ブロンディの挑戦<レゲエとラップ>


頂点に登りつめたブロンディは、更なる山の頂を目指し歩き続けます。そして、1980年にまたまたマイク・チャップマンのプロデュースによりフィフス・アルバム『オートアメリカン』を発表します。

このアルバムの中でブロンディは、世界の音楽業界に衝撃を与える二つのことをやってのけました。「夢見るNo.1」と「ラプチュアー」によりレゲエとラップを80年代の音楽のメインストリームへと引っ張り上げたのでした。

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ブロンディの解散とデボラのソロ活動


1981年にデボラ・ハリーは、プロデューサーにシックのナイル・ロジャースとバーナード・エドワーズを迎え、はじめてソロ・アルバム『予感』を発表します。そして、翌年1982年に恋人であり盟友でもあるクリス・シュタインの重病により、第六弾のアルバム『ザ・ハンター』を最後にブロンディを解散しました。

丁度この時期からデボラは、女優としての活動も開始し、デビッド・クローネンバーグの『ビデオドローム』(1983)の主演をつとめることになります。

やがて、1986年から89年にかけ、デボラは活動を復活させ、ソロ・アルバムを二枚発表しました。

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ブロンディ奇跡の復活


1997年に、ブロンディが再結成されました。そして、1999年、再結成後初のシングル「マリア」で、19年ぶりに全英No.1ヒットとなります。

そして、同年、第七弾アルバムとなる『ノー・エグジット』を発表しました(全米18位、全英3位)。以後、コンスタントに活動を継続し、2017年に発表した第11弾アルバム『ポリネーター』は、全英4位の売り上げとなります。

2010年以降デボラ・ハリーは、ファッション・アイコンとして、レジェンド的な扱いを受け、多くのラグジュアリー・ブランド及びファッション業界関係者から崇拝されるようになりました。そして、2019年10月、デボラは「Face It」という自叙伝を発表しました。