マリリン・モンローとN°5
ウィンストン・チャーチルの計らいにより戦争犯罪人にならずにすんだガブリエル・シャネルは、スイスに亡命し、1947年5月にパルファン・シャネル社と再契約し、世界中の売上高の2%すなわち、年間2500万ドルを獲得することになりました。
そして、1950年代に、N°5の運命を決定づける出来事が起こるのでした。それは、1952年の『ライフ』誌(8月7日号)のためのインタビューでの出来事でした。『ナイアガラ』撮影中のマリリン・モンローが「ベッドで身にまとうのはシャネルN°5を数滴だけ」というコメントを発したのでした。
そして、1955年3月24日、ニューヨークのアンバサダーホテルでN°5を持ちポーズをつける写真を撮らせたのでした。以後、シャネルN°5とマリリン・モンローは、永遠の絆で結ばれることになるのでした。
もはや磐石のパルファン・シャネル社のピエール・ヴェルタイマーは、1954年にガブリエル・シャネルのメゾン再開の資金をすべて負担することに合意しました。ガブリエルは、その代わり自分の名前を使用する権利を全て放棄したのでした。
かくして、70歳にしてガブリエルがファッション・デザイナーとしてシャネル・スーツを引っさげて復活を果たすことになるのでした。
1953年に撮影されたマリリン・モンローのベッド・ルームに偶然存在するN°5(この偶然という要素が、マリリンが普段からこの香水を愛用しているという説得力を生み出しました)。
ちなみに『ルパン三世』の峰不二子様が愛用しているのもシャネルN°5です(シーズン2の第一話「 ルパン三世颯爽登場」でルパンが言っているシーンあり)。
1950年代後半突然やってきたNo.5の衰退
1959年のキャンペーンで、「N°5はつける女性によって香りがちがう」というフレーズが広告に登場します。
しかし、1950年代なかばより、その熱狂的な売れ行きに反比例する形で、ドラッグストアチェーンのどこでも売られるようになり、値下げされ、ブランド力は坂道を転げ落ちるように落ちていったのでした。
かくして、N°5は高級品としての輝きをゆっくりと失っていくのでした。
迷走する60年代のN°5
1965年から2007年にかけてシャネルのアートディレクターに就任したジャック・エリュ(父親のジャン・エリュは、1930年代からシャネルのマーケティング・デザイナーだった)は、50年代後半からはじまるN°5の衰退の兆しに危機感を感じていました。
そんな危機感が、彼に多くの失策を犯させたのでした。それは1960年代の「活発なすべての女性は、シャネルN°5を望む」「活発なすべての女性は、シャネルN°5を愛する」というキャンペーンの失敗と、どうしようもなく子供っぽい若い恋人たちがうっとりとお互いの瞳を見つめあうティーン向けの広告(シェリル・ティーグス)でした。
そして、1970年に入り、アメリカの市場でのN°5のシェアは5%を下回り、完全に古臭い香水のイメージが定着したのでした。
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