1920年末、シャネルN°5の市場調査を行う。
1920年の年末、ガブリエル・シャネルは、N°5の完成後、まず最初にウインターシーズンのカンヌの高級レストランに、エルネスト・ボーをはじめとする関係者を招待しました。そして、自分のテーブルの周辺に未発売のNo.5のサンプルをぶちまけ、周辺客の反応をテストしたのでした。
「その効果ときたら、すごいものだったわ。テーブルのそばを通りかかった女性たちがこぞって、立ち止まっては鼻をならしたんですから。私たちは知らんぷりををしていましたよ」とガブリエルが回想するほどの反響が生み出されました。
そして、その場で、エルネスト・ボーに100本のサンプルを作るように命じ、影響力のある上流階級の顧客に配布したのでした。
1921年5月5日、No.5の販売開始
ガブリエルは、オリジナルのN°5の瓶をデザインするにあたり、1920年代にバカラ社が盛んに制作していた装飾的かつ華やかな香水瓶とは、真逆のシンプルなものを求めました。それは透明であり、何よりも彼女が望んだのは目立たないことでした。
最愛の人ボーイ・カペルが持ち歩いていたヴァンドーム広場にあるシャツメーカー・シャルヴェ製の男性用化粧水のガラス瓶が、そのデザインのベースとなりました(ボーイが愛用していたウイスキーデカンターという説もある)。
その蓋は現在のものとは違い小さく実用的な四角いガラスの栓でした。そして、1921年に発売された当初から二つのCを組み合わせたモノグラムが使用されていました。それはシャネルとカペルのシンボルでもある永遠に抱擁し合う二つのCの意味も含んでいました。
シャネルN°5が初公開されたのは、カンボン通りのブティックで、1921年の5月5日のことでした。そして、1921年から24年の4年間は、パリとドーヴィル、ビアリッツ、カンヌにあるシャネルブティックでのみ販売されました(正確には、23年からギャラリー・ラファイエットでも発売された)。
N°5は、1924年まで広告に一切登場しませんでした。その間、最も有名なN°5を紹介したメディアは、1904年にレジオンドヌール勲章を受勲していたセム(ジョルジュ・グルサ)による1921年と1923年の風刺画のみでした。
1924年、パルファン・シャネル社設立
この香りは香水業界に革命をもたらしました。そして、パリジェンヌにとって香水とはすなわちアルデハイドが入っていることになったのでした。
エドモン・ルドニツカ
ガブリエルは、ブティックでのN°5の売れ行きの好調を考え、販路拡大を図るため、ギャラリー・ラファイエットの経営者であるテオフィル・バデールとミーティングを重ねました。そして、バデールは、供給源の安定を求めました。
こうして、1923年春に世界最大の香水製造販売会社ブルジョワ社を所有していたピエール&ポール・ヴェルタイマー兄弟がガブリエルに引き合わされたのでした(1923年からギャラリー・ラファイエットでもN°5は販売されるようになった)。
交渉の末、ガブリエルは1924年4月4日にN°5を手放すことに合意しました。その代わり、彼女は一切の資本金を払わず、設立されたパルファン・シャネル社の10%の株を獲得することになりました(バデールは20%を獲得し、残り70%は兄弟が保有する。そして、二人がすべてを出資したのでした)。
一方、エルネスト・ボーは、ブルジョワ社とパルファン・シャネル社の技術部長兼調香師に就任しました。
1924年12月16日に、ニューヨーク・タイムズに掲載されたN°5の広告が、史上初めてのN°5の広告でした。高級百貨店ボンウィット・テラーによるこの小さな広告欄には、N°7、N°9、N°11、N°22と共に、N°5の名が特別扱いされることなく併記されていました。
それから10年もの間、新しい広告は散発的に登場しただけでした。さらに1940年代になるまでフランス国内での宣伝は一切行われませんでした(1925年のパリ万博にもN°5は出展されなかった)。
20年代、30年代、40年代において冴えない広告戦略を取っていたN°5は、宣伝をせずともアメリカ市場で売れたため、フランス本国でほとんど宣伝されませんでした。
N°5のボトル・デザインの歴史
1924年にパルファン・シャネル社が設立された際、N°5のボトル・デザインは、角を落とした四角いデザインの瓶に変更されました。これが、現在に至るまでの唯一の大きなデザインの変更でした。
ただし、蓋に関しては、何度も変更がなされました。蓋の八角形は、ガブリエルが居住していたホテルリッツの部屋から見たヴァンドーム広場の形状がモチーフになっており、1924年に変更されました。
ボトルは全て、クリスタルメーカーであるサン ルイ社によって製作されました。
パッケージに関しては、1921年から現在に至るまで一切の変更がありません。それは白地に黒の太い書体が、漆黒で縁取られたパッケージです。無駄なものを削ぎ落とした、省略の美学であり、白地と黒の縁取りは死と喪服の象徴であるという、かなり思い切ったデザインです。
1937年、ココ・シャネル、No.5の広告に登場
1928年にN°5は、ポケットボトルでも販売されました(1932年よりハンドバッグ・シリーズとして再販)。1929年から32年の4年間、N°5の宣伝は一切行われなかったのですが、このポケットボトルを活用し、第二次世界大戦中に、大幅な販売網の拡大のため、「パリの香り」として軍の駐屯地の売店で販売されました。
1934年6月10日ニューヨークタイムズに掲載された広告が、N°5の初めての単独広告でした。そのキャッチコピーは、「香水はシャネルのもうひとつの命です」。
そして、1937年に、「マダム ガブリエル シャネル。その人生は芸術そのもの」というキャッチコピーと共に、ホテルリッツの自室の暖炉の前に立つココ・シャネルの全身像がフューチャーされた広告が登場しました(ガブリエル自身が唯一出演したN°5の広告)。
第二次世界大戦で、ガブリエルは没落し、N°5は興隆する
1934年からはじめてN°5は、特別な存在として宣伝されるようになりました。一方、ガブリエルは、1939年9月1日に第二次世界大戦がはじまると同時に、カンボン通りの店以外のブティックを閉鎖し、引退してしまいました。カンボンのブティックでは、ただ香水とコスチュームジュエリーとアクセサリーだけが販売されていました。
1940年6月14日ナチス・ドイツがパリ入城し、ガブリエルはホテルリッツに住居を移しました(ドイツ占領後のパリにおいて、ホテルリッツはナチス高官の宿舎として接収された)。チョコレートがパリから姿を消したこの時期、フランス製の高級香水は闇市場で目が飛び出るような高値で取引されていました。
1940年8月5日ヴェルタイマー一族はニューヨークに亡命し、N°5の生産を継続するために、グラース産のジャスミンとローズドメの買い付けのため、(元ゲラン香水の社長であり、秘密諜報部員だった)ハーバート・グレゴリー・トーマスを、パルファン・シャネルのアメリカ支社長に就任させ、渡欧させました。
トーマスは、ナチス・ドイツの包囲網を掻い潜り、35万本のN°5が作れる量のジャスミンとローズドメをアメリカに持って帰り、戦時中のN°5の生産ラインをニュージャージー州の工場で確保したのでした。こうして、メイド・イン・USAのN°5は、戦時中にその品質を落とさなかった唯一の香水となったのでした。
アメリカで、1940年から1945年にかけて売り上げが10倍に伸びていたN°5は、世界中の米軍駐屯地の売店で売られていました。日本で最初に販売されたのも、アメリカの日本占領時代からでした。
一方、ガブリエルは、ナチス親衛隊の将校ヴァルター・シェレンベルクや、ゲシュタポの高官ハンス・ギュンター・フォン・ディンクラージを愛人にし、カンボンのブティックでシャネルの香水を自由に売り続けることが出来ました。
1945年、第二次世界大戦が終わり、アメリカ兵達は、帰国するにあたり、皆がシャネルのN°5を、故国に残してきた恋人・妻への贈り物として買い求めました。しかし、ガブリエル自身は、ナチスと共存していたため、亡命を余儀なくされました。
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