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映画の中のオードリー・ヘプバーン・ファッションの全て④<ティファニーで朝食を>

オードリー・ヘプバーン
オードリー・ヘプバーン
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主演第6作 尼僧物語(1959年)当時30歳



パリ・モードを体現する「世界中の女性の憧れ」になったオードリー・ヘプバーンが、『パリの恋人』の後に選んだ作品が、『尼僧物語』でした。

本作の中には、ジバンシィをはじめとするモード服は一切登場しません。オードリー・ヘプバーンが、時代の最先端をいくファッションではなく、尼僧服という伝統的な装いに身を包み、最後の数分まで物語は進んでいきます。ということは、オードリー・ファッションを堪能するにおいて、この作品は、相応しくないのでしょうか?いいえ、私はそう思いません。むしろ、この作品こそが、オードリーのファッション・センスの本質を垣間見ることのできる貴重な作品だと思います。

オードリーと尼僧服。彼女がそれを着ると、なぜかどんなドレスよりもハイセンスな装いに見えてしまいます。肌の露出も、女性的な色使いもないのですが、だからこそ、女性を美しく魅せる3つの要素が剥き出しになっています。その3つとは、

  1. ヘアスタイル
  2. メイクアップ
  3. 物腰(所作)

です。この3点が揃っていたからこそ、オードリーは、「処女性」の極みである尼僧服を、最高峰のモードの位置にまで高めることができたのです。この作品を見ていて、オードリーのオール・ブラック・スタイル及びオール・ホワイト・スタイルに、ファッションに関わる仕事をするものならば、容易に感じ取ることの出来る装いのヒントを見つけることができるはずです。

シスター・ルックでさえも、オードリーにかかればモードになります。オードリーの美しさの秘密は、こうしたシンプルな装いさえも、絵になるところにあるのです。

『尼僧物語』のオードリーのシスター・ルックについては、『尼僧物語』1(オードリー・ヘプバーンのシスター・ルックについて)をご覧ください。

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コンゴ動乱寸前のコンゴに降り立った妖精




この作品は、その後の、『ティファニーで朝食を』(1961)と『シャレード』(1963)というオードリーの30代前半のファッション史に残る名作を生み出すための「大人への階段」の役割を果たしたと言えます。

その階段の第一歩は、『ローマの休日』とはまた違う意味で、ヘアーをカットするシーンの美しさ。そして、その先にいたオードリーの、どこまでも透明感に包まれた〝本物の聖母〟のような圧倒的な存在美。1950年代最後のオードリー神話はこの作品をもって完結したのでした。

『尼僧物語』のオードリーのシスター・ルックについては、『尼僧物語』1(オードリー・ヘプバーンのシスター・ルックについて)をご覧ください。

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白と黒の美学が教えてくれるファッションの本質




聖堂での儀式のシーンにおいては、本物の尼僧が使えないため、ローマ・オペラのバレエ団から20名のダンサーを借り、列を作り、膝まづき、頭を下げ、ひれ伏す動作を合図に従って一斉に行いました。そして、アップで写る尼僧の顔は、エキストラとして参加した王女や伯爵夫人らの気品ある表情に置き換えられました。

本作は、1960年代にやってくるベトナム戦争と、カウンターカルチャー時代の前に響き渡った最後の澄んだ鐘の音のようなものでした。60年代から90年代に渡っては、ただの古臭いカビの生えた映画として、人々から軽んじられ、21世紀に入り、オードリー再評価の中、聖典の位置まで駆け上った作品なのです。

ファッションという見地から見ても、この作品のオードリーは間違いなく刺激的であり、多くの「ファッションの啓示」に満ち溢れた作品なのです。

血が流される前夜のアフリカ大陸で、オールホワイトの尼僧姿で、天使のように現れるオードリー。そして、そんな実在するオードリーのような尼僧達が、この作品が作られた2年後に、暴行され殺されていった事実。生死の境で生まれるファッションの普遍性を私達は感じずにはいられません。ファッションとは、ただのトレンドに支配されたものではなく、もっともっと奥深いものなのです。

『尼僧物語』のオードリーのシスター・ルックについては、『尼僧物語』2(オードリー・ヘプバーンのシスター・ルックについて)をご覧ください。

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主演第9作 ティファニーで朝食を(1961年)当時32歳


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もはやオードリー・ヘプバーンのような人はいない。悲しいことだ。オードリーはファッションに影響を与えた。今はファッションに影響力を持つ人は音楽界にいる。マドンナだ。・・・今のスターは、次々とデザイナーを替えるようだ。ひとつのスタイルにあまりこだわりたがらない。・・・映画の中では自由に変えられるが、実生活の中では自分自身でいるしかない。オードリーはいつもジバンシィを着ていた。彼女とジバンシィは60年代のエレガンスを象徴していた。『ティファニーで朝食を』はファッションと映画スターの完璧な結合だと思うよ。現代にはそういうものはない。・・・スターはひとつのスタイルをもたなきゃいかん。いつもデザイナーを替えてばかりいるスターは、自分の外見に対するイメージをきちんともっていないということになる。

ジャンニ・ヴェルサーチ、1997年のインタビュー。

1950年代のオードリー・ヘプバーン(1929-1993)のイメージは、プリンセス、パリモードが最も似合うハリウッド女優、ファッションモデルでした。そして、1959年に30歳になろうとしていたオードリーは、色々な役柄にチャレンジしたいと考えました。そして、まず最初に『尼僧物語』で尼僧を演じ、さらに、失敗作にはなったが『緑の館』(1959)に出演し、翌年(1960年)には『許されざる者』で初めての西部劇に出演します。

そして、1961年『ティファニーで朝食を』に出演することになります。まさにこの作品により、パリだけでなく、ニューヨークにおいても洗練された都会の美女であるというというオードリーのイメージが創り上げられました。この作品により、再びユベール・ド・ジバンシィが彼女の衣装をデザインし、オードリーの60年代ははじまったのです。そして、この作品により、パリモードが、ニューヨーク(=世界の各大都市)へ、はっきりと溶け込み、ファッション文化の大衆化は加速することになるのでした。

『ティファニーで朝食を』のオードリー・ファッションについては、『ティファニーで朝食を』1(オードリー・ヘプバーンとブラックドレスについて)をご覧ください。