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【ジバンシィ】ランテルディ(フランシス・ファブロン)

ジバンシィ
ジバンシィ
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ランテルディ

原名:L’Interdit
種類:オード・パルファム
ブランド:ジバンシィ
調香師:フランシス・ファブロン
発表年:1957年
対象性別:女性
価格:不明

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オードリー・ヘプバーンとジバンシィの最初の出会い

『ローマの休日』でアン王女を演じたオードリー・ヘプバーン

ジバンシィからはじめて生み出された香水「ランテルディ」について、ご説明する前に、何よりも知っておいて欲しいこと、それはオードリー・ヘプバーンとジバンシィのはじめての出会いについてです。

オードリーがはじめてユベール・ド・ジバンシィと出会ったのは、本人とではなく、彼が生み出した作品からでした。

オードリーは、1952年に、初めてハリウッド映画に出演した記念に、その『ローマの休日』の出演料で、自分への褒美として、ジバンシィのコートを購入しました。この時、オードリーは初めてジバンシィの服に身体を通しました。

そして、そのコートが、見せかけだけでなく、着て、生活して初めて分かる感覚、そう、身体を締め付けるのではなく、包み込むような繊細さにすっかり感心しました。彼女は、心の底から、もっとパリのクチュリエが創り出すファッションに身を包みたいと渇望したのでした。

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ハリウッド女優がはじめて香水の広告に現れた瞬間。

1958年に、ハリウッド女優がはじめて香水の広告に現れました。©Givenchy Beauty

オードリー・ヘプバーンとユベール・ド・ジバンシィが1950年代のファッション・シーンを席巻している真っ只中の1957年に、ジバンシィより「ランテルディ」という名の香りが発売されました。

元々、1954年に、ユベールがオードリー・ヘプバーンのために作らせた香りをオードリーに嗅がせたところ、甚く気に入り、商品化することを「禁じた(Mais je vous l’interdis !)」ため、ついに3年後に商品化が認められた時に「ランテルディ(禁止)」と名づけられたという伝説が生まれました。

何かを禁止すると子供はすぐにやりたがることを思い浮かべたのです。ですから、『禁止』と名づけてみようと思いました。

ユベール・ド・ジバンシィ

オードリーが発売を禁じたという伝説は、本当の話ではなかったのですが、この香りの広告にオードリー・ヘプバーンが登場したことにより、ハリウッド女優が歴史上はじめて香水の広告に現れた瞬間となりました。

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1953年、オードリーは『サブリナ』の衣裳買い付けの旅に出ました。

サブリナパンツ姿のオードリー。

エレガンスの秘密は自分らしさをもつこと。

ユベール・ド・ジバンシィ

この香りの誕生の真の意味を知るために、オードリー・ヘプバーン(1929-1993)とユベール・ド・ジバンシィ(1927-2018)のはじめての出会いのエピソードを知る必要があります。

事の始まりは、『麗しのサブリナ』の監督であるビリー・ワイルダーが、本作の衣装デザイナーである、イーディス・ヘッドに言ったこの一言から始まりました。

パリから帰国した後のサブリナのフォーマルな衣装はパリのデザイナーにお願いすることにします」。一説によると、このワイルダーのアイデアは、オードリーのアイデアを取り入れてのことと言われています。しかし、真相は今となっては分かりません。

イーディス・ヘッドが1983年に書いた自伝にはこう記されています。「この作品は、全てのデザイナーにとって夢のような作品でした。3人の素晴らしいスター。特にパリのマネキンのような女性・オードリー・ヘプバーンの衣裳のデザインを担当できるのですから」。

ベッティーナ・ブラウス

1952年にユベール・ド・ジバンシィは、パリでメゾンをオープンしました。この時発表した刺繍入りのコットンブラウスベッティーナ・ブラウス(当時3000ドル近くした)がアメリカで話題になりました。53年の夏、オードリーは、ワイルダーと打ち合わせを重ねたあと、パリに『サブリナ』の衣裳の買い付けの旅に出ます。

ワイルダーの希望は「パリのマネキンのようなルック」を見つけて下さいということでした。大作映画の衣裳の買い付けに、一人の女優がスタッフも付けずに行ったのは、前代未聞のことでした。後に本作撮影中のセットでジャーナリストにオードリーはこう答えています。「私は、悪癖だと言えるほどにファッションを愛しているのです」と。

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オードリーとユベールの友情のはじまり。

ジバンシィのドレスを着た『麗しのサブリナ』のオードリー。

1953年7月の終わりに、ユベールは、4回目のコレクションの準備をしていました。それはオリエンタルをテーマにした冬のコレクションでした。そんなある日、グラディス・ド・スゴンザックから電話がありました。彼女は、かつてユベールが4年間働いていたスキャパレリのディレクターでした。そして、パラマウント映画(『麗しのサブリナ』の製作会社)のパリ支局長と結婚していました。

彼女は電話口の向こうで言いました。「ミス・ヘプバーンがパリに来ます。そして、あなたに会いたいと言っています」と。当初、グラディスは、クリストバル・バレンシアガに依頼していましたが、バレンシアガはコレクションが忙しくて無理でした。

同じくコレクションの準備で忙しかったユベールは、当時キャサリン・ヘプバーンの大ファンでした。ユベールは回想します。

「キャサリン・ヘプバーンは憧れの人でした。二つ返事で、是非にとお答えしました。ところが、当日私の目の前に現れたのは、痩せた若い女性でした。ショートヘアに綺麗な大きな瞳、太い眉が実に印象的で、丈の短いトラウザーにバレリーナ・シューズ、小さめのTシャツを着ていました。頭には赤いリボン付きのストロー・ゴンドラ・ハットがのっかかっていて、私はこの帽子はトゥーマッチだなと感じました」。やがて二人は話すうちに、すぐにお互いに通じ合うものを感じ(二人とも20代だった)、意気投合しました。

しかし、悩んだ末にユベールはオードリーにこう答えました。「私はメゾンをオープンしたばかりで、スタッフも8人しかいません。ショーももうすぐです。申し訳ありませんが、お時間を作れないのです」と。ですが、オードリーは引き下がりませんでした。「お願い、お願いだから、何か試しに着させてください」と。

ユベールは、その熱意にほだされ、まだ吊るされている1953年春夏コレクションのサンプルの中から自由に選んでくださいとオードリーに伝えました。そして、ユベールが見守る中、オードリーは3つの衣装とそれに付随するハットを選びました。

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オードリーがユベールに無償で恩返ししたかった理由。

オードリー・ヘプバーンとユベール・ド・ジバンシィ。

オードリー・ヘプバーンとユベール・ド・ジバンシィ。

『麗しのサブリナ』のためのチョイスを見て、ユベールはオードリーのファッションセンスにすっかり感動し、メゾンの上にあるビストロのディナーに招待しました。

「私達は、多くの点ですごく共鳴しあいました。彼女は、芸術・文化に対する教養も高く、そして、メル・ファーラーとの恋愛について夢中で話す純粋さにも好感を持ちました。そこにいた私のスタッフはみんな、オードリーに夢中になりました。勿論、私もです。そして、彼女は言いました。〝あなたは私の兄のようだ〟と。それから私はオードリーを妹と考えるようになりました」(ユベールの回想)

オードリー・ヘプバーンは言います。「ジバンシィの洋服を着ていると自信を持って演技が出来るんです」。オードリーは、『サブリナ』撮影中に感謝の気持ちを込めて、ユベール・ド・ジバンシィをハリウッドに招待しました。そして、その時に、イーディス・ヘッドも紹介しました。

「私は映画を見て、自分の名前がどこにも出ていないことに驚きました。想像してください。もし、私の名前がクレジットにあれば、メゾンを開設したばかりの私にとって、大変な助けになったことでしょう」と言うユベール。貴族階級出身の彼は、当時、ことさら不満を口にすることはしませんでした。

一方、オードリーはこのことで、ユベールに謝罪しました。彼女は、まだまだハリウッドでは新参者でした。もちろん当時のハリウッドは今では想像も付かないほどに大きく、一人の新人女優が口を挟める余地はありませんでした(相手はイーディス・ヘッドであり、ビリー・ワイルダーなのですから)。

そこで、オードリーもまた不満を口にして騒ぎ立てるのではなく、ユベールに対して協力の出来ることは、何でもしようと決心しました。勿論彼女はその決意をユベールには伝えませんでした。まず最初に、海外プレミアツアーにおいて、ことあるごとに映画で使用した3つのジバンシィの衣装に身を包みました。自らジバンシィを宣伝したのです。

「私は、トレンチコートをデザインしないので、オードリーと一緒に他のデザイナーのトレンチコートを探したこともあります。彼女がローマに住むようになり、ヴァレンティノで服を買うようになると、そのたびに、オードリーはマメに電話してきてくれました。「ユベール。どうか怒らないでね」と。私達は一度も言い争いをしませんでした。オードリーは決して私たちの関係をビジネス上の関係と考えませんでした。それが私にはよく伝わりました」

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絶対にギャランティーを受け取ろうとしなかったオードリー

©Givenchy Beauty

私が、香水ランテルディをローンチし、オードリーをイメージキャラに使ったときも、彼女はお金を受け取ろうとしませんでした。

ユベール・ド・ジバンシィ

『麗しのサブリナ』においてジバンシィのクレジットが出なかったことに対する恩返しの機会がやってきたとばかりに、オードリーは「ランテルディ」の広告(1958年、バート・スターンにより撮影された)に無償で協力しました。

ユベールは何度もそれは公平ではないとギャランティーの支払いを希望したが、オードリーは「サブリナで示してくれたあなたの寛大な態度にはとても感謝してるの」とだけ答え、受け取りを拒絶するのでした。

以後、常にジバンシィのコレクションには駆けつけ、毎回市場価格で洋服類(香水も含む)を購入していたのでした。

そんな2人の関係に疑問を持った、ハリウッドでも強力な力を持つオードリーの広報エージェント、ヘンリー・ロジャースは、当時のオードリーの夫メル・ファーラーから了承を得て、ジバンシィ社に衣装の無償提供を提案したのでした。

しかし、ことの経緯を知ったオードリーは、唖然とし、ロジャースに、涙ながらに「私とユベールは兄妹のような関係なのです。余計なことはしないで!」と言い放ち、提案を撤回させました。

一人のファッション・デザイナーと一人の映画女優の利害関係を超越した関係。オードリー・ヘプバーンのファッションは、なぜ私たちの心を打つのでしょうか?それは、彼女の生き方も含めて、女性が本当に洗練されるという意味を伝えてくれるからなのです。そして、「ランテルディ」が女性にとって〝永遠の洗練〟を意味する理由は、その香り立ちだけでなく、その香りに秘められた物語が心を打つからなのです。

1993年のオードリーの葬儀において、ユベール・ド・ジバンシィは彼女の棺を担ぐ一人になりました(オードリーが死を予感したとき、ユベールに〝悲しいときはこのコートを着てね〟と贈った青いキルトコートを、ユベールは死ぬまで大切に愛用していました)。

21世紀に入り、ユベールはオードリーを回想してこう言っています。「オードリーとの関係は、結婚みたいなものですね」と。

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「ランテルディ」について

©Givenchy Beauty

さて、香水「ランテルディ」についてお話しましょう。ユベールが1954年に香水事業に参画したのは、永遠の憧れの人であるクリストバル・バレンシアガのアドバイスによってでした。

メゾン初のフレグランスとして、彼は二つの香りを同時に作ることにしました。ルールベルトランデュポン(現ジボダン)に依頼し、3名の調香師により、どちらかひとつでも成功すれば良いという意図でプロジェクトは進められました。

そして、「ランテルディ」と共に完成したもうひとつの香りは、ユベール自身の分身ともいえる香りとして「」と名づけられ、親しい友人やVIP客にだけ配られました。

オードリーの分身とも言える香り「ランテルディ」は、シャネルの「No.5」の影響を強く感じさせる、パウダリーでスパイシーなフローラルアルデヒドの香りでした。

ニナ・リッチの「レールデュタン」を1948年に生み出したフランシス・ファブロンにより調香されました。

1957年に発売されるまで、3年間は、地球上でオードリー・ヘプバーンだけがこの香りを愛用していました。そして、発売と同時に僅か一日で4000本完売したのでした。

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オードリースタイルの『No.5』

ジバンシィを着るスージー・パーカー。1952年SS。

スプレーの一吹きと共にはじまるユベール・ド・ジバンシィからオードリー・ヘプバーンへ捧げる〝永遠の愛〟の香りは、実に繊細なアルデハイドの風に乗ってやって来るベルガモットとマンダリンに、酔わせるようなピーチとジャミーなストロベリーが遭遇するようにしてはじまります。

優しく囁き合い、弾け合うシトラスとフルーツの中に、すぐに、アイリスとヴァイオレットがパウダリックな神秘性で覆い尽くしてゆきます。それはどこかシャネルのNo.5を感じさせる、より柔らかでパウダリックな調べとなります(よりフルーティでアンバリー)。ただし、ハリウッドのプラチナブロンドの往年の女優たちの仰々しさではなく、あくまで『オードリースタイルのNo.5』なのです。

やがて、ピンクペッパーとクローブが、軽やかなベッティーナ・ブラウスに通じる快活さを生み出してゆくのです。まるで当時主流だったロマンティックで古典的な香水のおとなしいイメージを裏切るように、遊び心に満ちたトップノートが現れるのです。

そして、高級石鹸のようなジャスミンとスズランのクリーミーなグリーンの閃光に導かれ、アルデハイドが降り注ぐ中、ローズ(グラース産メイローズとブルガリアンローズ)が満開に咲き誇りはじめるのです(どこかマニキュアのようなニュアンスが生み出される)。

さらにイランイラン、オレンジフラワー、水仙などの春の花々のブーケが温かい陽光の下で香りを馥郁に発散させ、若さと洗練の奥深くに潜む官能性を感じさせてゆきます。

ドライダウンと共に、フルーティが減退する中、クリーミーなマイソール・サンダルウッドとバニラのように甘やかなベンゾイン、インセンス、ベチバーが、アイリスの薄靄に包まれ、トンカビーンのパウダリーさと共鳴し合い、温かくも妖艶なオリエンタルの余韻を残してくれるのです。

それは現在愛されている〝スキン・パルファム〟とは全く逆の方向を進む、〝香りの毛皮〟とも言える〝身にまとうワードローブ〟と言えます。

1957年に真紅の箱に収められ発売されたこの年、ニューヨークのブルックリン・ハイツの1階で、知名度の低い作家が、ホリー・ゴライトリーの物語を書いていました。その作家の名をトルーマン・カポーティと申します。そして、4年後にその作品は『ティファニーで朝食を』として、オードリーを主役に迎え映画化されることになるのでした。

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オードリーが映画の中でもつけていた香り



1964年に公開されたオードリー・ヘプバーンの主演作『パリで一緒に』は、実際には1962年に撮影されました。本作のオープニングタイトルで『オードリーの衣装と香水はユベール・ド・ジバンシィによるものです』と出てきます。

しかし、実際には、この作品の中に香水は登場しません。そして、もちろん映像からは香りを嗅ぐことは出来ません。であるにも関わらず、〝香水はジバンシィからの提供〟とクレジットされています。それはこの撮影の間中、オードリーが身に纏っていた香水が「ランテルディ」だったからでした。

ジーン・セバーグ、ウィンザー公爵夫人、若き日のエリザベス女王とジャクリーン・ケネディも夢中にしたこの香りはやがて廃盤となり、その後続品として、1993年に「ランテルディⅡ」が発売されました。

そして、2002年に復刻し(ジャン・ギシャールオリビエ・ギロティンにより)、2007年に50周年の復刻版として、オレンジフラワー、ホワイトローズ、ジャスミン、ヘリオトロープが強調されたものが発売されました。

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香水データ

香水名:ランテルディ
原名:L’Interdit
種類:オード・パルファム
ブランド:ジバンシィ
調香師:フランシス・ファブロン
発表年:1957年
対象性別:女性
価格:不明


トップノート:アルデハイド、ストロベリー、スパイス類、ピーチ、ベルガモット、マンダリン・オレンジ
ミドルノート:アイリス、ヴァイオレット、水仙、ローズ、オリスルート、イランイラン、スズラン、ジャスミン
ラストノート:サンダルウッド、アンバー、ベンゾイン、ムスク、トンカビーン、ベチバー

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