母は私を辱め、愛を求める私の心を理解しなかった。私の愛は憎しみに変わった。
母上、あなただ、昔からあなたが私の悪夢だった。あなたはあらゆる方法で私を屈服させようとした。時には醜いそのカツラや口紅で。
マルティン(ヘルムート・バーガー)
あるヴィスコンティ監督の言葉を読んで私はふと考えました。それはこの一文です。
私たちは机の上で長い長いリハーサルを行う。必要に応じて十日、十五日、二十日とつづき、俳優は各自分の役を持ち、推敲に推敲を重ねて完成したテキストを片手に、それぞれの人物を徹底的に検討する。自然に正しい方向へ持っていくのは全員の自由に任されている。これにより俳優は大いに自信を持つにいたる。
ルキノ・ヴィスコンティ
ヴィスコンティの映画の中の登場人物から放たれる狂気。それは生命をすり減らすが如きリハーサルの中から生み出されたものです。もはや、役柄と本当の自分の垣根さえも越えてしまう、精神的高揚の中で撮影ははじまるのです。
ヴィスコンティの偉大さとは、現代の世の中では、決して許されず、行うことが出来ない〝究極の撮影空間〟の中に役者を置き、生み出せた奇跡の瞬間を、21世紀を越えても尚、人々の心に伝え続けているところにあるのです。
世の中には、かしづかれる者とかしづく者がいます。そう俳優には、配役にかしづく者と、配役をかしづかせる者がいます。恐らく、出演した俳優たちは、皆、ヴィスコンティの配役にかしづいたのでしょう。
だからこそ、ヴィスコンティは、調度品は出来るだけ当時の本物を使用するのです。「過去の時代に役者を連れて行き、そこで生きさせるために・・・」。本気は狂気から生まれるのです。

本物の母子に見えるヘルムート・バーガーとイングリッド・チューリン。
怪物が女に戻った瞬間。

黒いドレスを着た怪物のような女。

手に入らない母からの愛を求め、歪んでいくマルティン。

本作の隠れボーナストラック。よろめく貴婦人シーン。ここからチューリン様の静の狂気の芝居の幕が開きます。
マルティン(ヘルムート・バーガー)に手首を捻られた時の、イングリッド・チューリン様の表現力は、心の底から震えるほどの美しさに満ちています。
その後、弱々しく息子にしな垂れかかり、思わず貪るようにくちづけをしようとし、フリードリヒの視線を感じ、我に戻り、つんのめりながら彼の元にしな垂れかかるその姿。今まで見たことのなかったゾフィーの姿がそこにあります。
そして、その姿のあまりの弱々しさに、男性の鑑賞者は、その本能を揺さぶられ、女性の鑑賞者は、自分自身に置き換え不思議な疼きを感じてしまうのです。ここから、チューリンの静の狂気の芝居の幕が開きます。滅びの美学。いいえ、儚さが、怪物を少女に変えてしまい、息子の生贄になることで自己完結するのです。
ゾフィー・エッセンベックのファッション7
女帝スタイル
- 黒のロングドレス、手首にダイヤモンドの刺繍、胸元にダイヤの飾り

まさに女当主の貫禄です。スリーブのダイヤモンドを散りばめた刺繍が素晴らしい。

ピエロ・トージのデザイン画。

ピエロ・トージのデザイン画。

ドイツの厳粛さを凝縮したようなイブニングドレス。

エメラルドのパリュール。
母親と息子は、表裏一体であり、そして一つになった。

息子に犯されてしまう母親。光と影で表わすデモニズム。

喪服のようなブラックドレス。

ずっと貫禄のあったチューリンが、生娘のようにオロオロする。

そして、二人は地獄に堕ちていくいくのでした。
私の映画はだんだんと暗くなり希望がなくなってきたと言われるが、この映画などまさしくそういうものである。この怪物の家族の中に希望の曙光でも見出そうということは私には不可能であった。私はこの映画のラストでいかなる希望も、いかなる救いをも怪物たちに与えようとは欲しなかった。そして、実際、この映画はナチズムの歴史が始まる時点で終わっており、その後に起きたことを我々は知っている。
ルキノ・ヴィスコンティ
イングリッド・チューリン扮するゾフィーは、その時まで、人に対する感情などおおよそ持ち合わせていない怪物でした。そんな彼女が、母子相姦によって、息子に対する母親の愛情と後悔の念を感じてしまい、その感情に陶酔感さえ覚えてしまうのでした。
そして、息子によって、精魂を吸い尽くされたかのように抜け殻になってしまうのでした。
これは明らかに悪魔の誕生の瞬間であり、マルティンは、ゾフィーを犯すことにより、再び、彼女の体内から新たなるものとして生まれ出でたのでした。
こうして、ナチズムは、精神的な強さを持たぬものを悪魔へと変身させてゆくのでした。丁度、アッシェンバッハが、「ギュンター、君は今夜、驚くべき何かを身につけたのだ」と言い放ったのと同じように・・・
イングリッド・チューリンのマガマガしさ

二人の静の所作の幽玄さ。1945年4月29日に結婚したアドルフ・ヒトラーとエヴァ・ブラウンがその翌日自殺したことを連想させる二人の婚礼のシーン。そこにあるのは完全な敗北者の姿。

能面のようなデスメイクを生きた人間の顔に施す。
マルティンの母子相姦のシーンもさることながら、大団円のフリードリッヒとゾフィーの結婚式と死のワーグナー的場面のカットの積み重ねには、再び冒頭の悠々たるタッチがあらわれ、同じ邸が隈なくハーケンクロイツの旗で飾られて、娼婦やならず者の参列者の中へ、不気味な死化粧の白面のゾフィーが、フリードリッヒと手を携えて階段を下りてくる。
親衛隊員となったマルティンが母に対する復讐を完成し、完全な精神的陵辱と死を与えるこの場面のものものしさ、絶妙の運びののろさ、それ自体みじめに戯画化されながら、戯画化の絶頂で異様な壮麗さに転化してゆく演出は、へんな言い方だが、非常に「よい趣味」なのである。
すべてが人間性の冒涜に飾られたこの終局で、ヴィスコンティは、序景の、直接的暴力によって瞬時に破壊された悲劇の埋め合わせを企むのだ。それがもう少しで諷刺に堕することなく、あくまで正攻法で堂々と押して、しかも感傷や荘重さや英雄主義を注意深く排除し、いわば「みじめさの気高さ」とでもいうべきものをにじみ出させ、表情一つ動かさぬマルティンの最後のナチス的敬礼をすら、一つの節度を以って造型する。
三島由紀夫『映画芸術』(1970年4月、割腹自決の7ヶ月前)
ここまで徹底的に自己崩壊へと導かれる悪の姿を描き出した作品も珍しいです。悪が悪により滅ぼされ、巨悪に変わっていく姿。
その過程で、女性の美しさよりも、男性の美しさが、突出していく。世に吹聴されているノージェンダーという言葉の安っぽさ。ジェンダーがなくなる時代の到来ではなく、正確には、男性が女性らしさを引用し、女性が男性らしさを引用するというクロス・ジェンダー時代の到来。
なぜ息子は母親に似るのだろうか?もしクロス・ジェンダー時代が進んでいくと、その先にあるのは、マルティンの姿なのだろうか?恐らく、ジェンダーを超えるというテーマの中に潜む悪魔がこの映画の中には、そっくりそのまま巣食っているのでしょう。
もしかしたら、ジェンダーを超えるということは、許されない禁忌なのかもしれず、究極の怪物=限りなく悪魔に近い絶世の美を生み出すことなのかもしれない。
美しき母親よりも、その母親の息子に興味が沸きます。女として生き、子供に愛情をかけることが出来ず、ただペットのように接するだけの母親からどんな悪魔が育つのだろうか?
もしかしたら、この作品のイングリッド・チューリンはあなた自身が向かいつつある終着駅を示しているのではないか?滅びの美学がリミッターを完全に振り切っています。だからこそ、この作品のチューリン様はとてつもなく魅力的で美しいのです。
ゾフィー・エッセンベックのファッション8
死化粧スタイル
- ペールパープル×グレーのドレス
- パープルのヘッドドレスにヴェール
- ミンクの巻き物

死の婚礼を迎える二人。ゾフィーは顔に白化粧を施している。

そして、奥にはナチス親衛隊将校になったマルティン。

そして、目を見開いたまま死す。

ウエディングドレスであり、死に装束であるドレス。

ピエロ・トージのデザイン画。
作品データ
作品名:地獄に堕ちた勇者ども The Damned (1969)
監督:ルキノ・ヴィスコンティ
衣装:ピエロ・トージ
出演者:ダーク・ボガード/イングリッド・チューリン/ヘルムート・バーガー/シャーロット・ランプリング