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『パリの恋人』Vol.8|ドヴィマ 伝説のファッション・モデル

イヴ サンローラン(ファッション)
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世界でもっとも売れていたファッション・モデルの登場。

1956年6月『パリの恋人』撮影当時、もっとも売れていたファッション・モデルが、本作のはじめの方に登場します。その人の名をドヴィマ(1927-1990)と申します。その流れるようなポージングを一目見ただけで、只者ならぬオーラを感じさせてくれます。

ドヴィマが、最高峰のファッション・モデルが持つカリスマ性と無思慮な部分を流れるポージングの中で披露してくれたからこそ、この作品の世界観は確立されたのでした(笑わせるシーンでありながら、一流のプロの凄さを感じさせるシーンです)。

ドヴィマの存在があればこそ、真逆とも言える、オードリーの自然体のポージングが光り輝くことになるのでした。

ドヴィマ様の存在感に圧倒されるオードリー。

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ドヴィマのファッション1

ブラック・ドレス
  • デザイン:イーディス・ヘッド
  • 実に個性的なラインのロングスリーブ・ブラックストレッチウール・ナロードレス
  • ブラックグローブ
  • ブラックパンプス

「彼女はまるでニューヨーク生まれの美しいキリンだ」セシル・ビートン

実生活においてもドヴィマはコミックが大好きでした。それにしても脚の組み方ひとつとっても素敵すぎます。

ポージングのテーマは「考える女」です。

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ドヴィマとオードリー・ヘプバーン

人当たりが良く天真爛漫ドヴィマとオードリー。

二人でヴォーグを読む。裏表紙はジャン・パトゥの高級香水「ジョイ」。奥には体育座りのランプ。

二人が読んでいたのは、ヘンリー・クラークに撮影された、ドヴィマがディオールを着た表紙のヴォーグ・パリ1956年4月号です。

そして、見ているページは、ドヴィマがバレンシアガとジバンシィを着ているこのページかもしれません。

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ドヴィマのファッション2

イエロー・ドレス
  • デザイン:イーディス・ヘッド
  • イエローのスパゲッティストラップドレス、サテン生地にシフォンを重ねている
  • カプリーヌ風麦藁帽子、イエローグリーンのリボン
  • イエローのレザーパンプス



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1950年代を代表するファッション・モデル

ドヴィマとバーバラ・ミューレン。1948年、ジョージ・プラット・ラインス。

ドヴィマ、1949年『グラマー』ノーマン・パーキンソン。

ドヴィマは単純で教育もないけど、本当に信じられないほどすごい人よ!

ドリアン・リー(スージー・パーカーの姉であり、同じく50年代を代表するファッションモデル)

ドヴィマことドロシー・ヴァージニア・マーガレットは、1927年12月にニューヨークのクイーンズのジャクソン・ハイツで生まれました(父親は警察官でした)。10歳でリューマチ熱にかかり、その後7年間を自宅のベッドの上ですごし、教育は自宅で受けました。

その時に、孤独を癒すために創造した「空想の親友」の名前こそが、自分の名前の頭文字を組み合わせたドヴィマでした。

幸運にも18歳で完治し、ドロシーは美術学校へ通うことになりました。「わたしは自分がきれいだと思ったことは一度もありません。子供の頃はがりがりの痩せっぽちでしたし、母親の服を着て遊んでいるときに前歯を折っていましたから」と彼女自身、少女時代を回想しています。

1948年、孤児として育った銀行員と結婚します。その理由は「彼だけは私のことを美人だと褒めてくれた」からでした。そして、半年後、1949年にマンハッタンのレキシントン・アヴェニュー(近くにヴォーグのオフィスがある)を夫と歩いているときに運命的な出来事が起こりました。

ヴォーグのエディターに声をかけられ、一緒に来て下さいと言われたのでした。このようにして突然彼女のファッション・モデルのキャリアがはじまりました。当時の「ヴォーグ」の専属フォトグラファー、アーヴィング・ペンによってテスト撮影されることになりました。

「笑え」とアーヴィングに言われたが、欠けて変色した歯を隠すために、モナリザのような謎めいた表情をしました。そして、それが彼女のトレードマークになったのです。ドヴィマにはポーランド人とアイルランド人の血が混じっていました。

173cmのすらりとした肢体、その透き通るような白い肌と、アーモンド型の目、カラスの濡れ羽色の髪、ターコイズブルーの瞳のアンサンブルによって作り上げられる個性が、当時の「ハーパーズ バザー」の専属フォトグラファー、リチャード・アヴェドンを惹きつけました。かくしてドリアン・リーのあと、そして、スージー・パーカーの前のアヴェドン・ミューズとして、ドヴィマは大活躍することになるのでした。

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「ドル・ア・ミニット・ガール(1分1ドルの女)」になる

バレンシアガを着たドヴィマ。1950年、リチャード・アヴェドン。

「ギザのピラミッドのドヴィマ」ブルック・カドワラダーを巻く。1951年1月、リチャード・アヴェドン。

フォトグラファーから多くを要求されればされるほど、わたしも多くを与えるように努力します・・・三分でヘアスタイルを変える方法も見つけました・・・野外撮影の時には、タクシーや木の後ろで着替えなくてはなりません。一度など、電話ボックスの中で着替えたんですよ。

ドヴィマ

1950年秋、「ハーパーズ バザー」の仕事でリチャード・アヴェドンと共に、パリに行くことになりました。ドヴィマにとってはじめての海外でした。

やがて彼女は1時間60ドルのギャラをもらう最も高額ギャラのファッション・モデル=「ドル・ア・ミニット・ガール(1分1ドルの女)」になりました。そのはかなげな美しさが、1950年代のマンハッタン・エレガンスそのものとして持て囃されました。1953年までには有名なフォトグラファーのほとんどと仕事をしていました。

そして、パリ、ロンドン、ローマ、エジプト、メキシコと世界中でリチャード・アヴェドンと共に撮影旅行に出かけました。

わたしたちはシャム双生児のようになりました。わたしは説明されないうちから、彼の欲しいものがわかったのです。彼は突飛なことを要求するのですが、わたしはいつも大きな絵の一部になればいいのだとわかりました。

ドヴィマ

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ファッション・フォト革命の年<1955年>

ジェナバッグとハンドバッグを持つドヴィマ。1953年、ウィリアム・ヘルバーン。

ランバンを着たドヴィマ。1955年、パリ、リチャード・アヴェドン。

有名なレブロンの広告。1955年。

ジャン・パトゥのドレスを着るドヴィマ。1955年、パリ、リチャード・アヴェドン。

あなたは桁外れのスーパースターだと思うわ。

1955年、パリコレのドヴィマのランウェイを見たダイアナ・ヴリーランドの言葉。

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ドヴィマ・ウィズ・エレファンツ

この日、ドヴィマは一時間に千枚も写真を撮られ、しまいには象が職場の同僚のように思えたという。

リチャード・アヴェドンは彼女に超然とした態度をとるように指示しました。



ドヴィマとアヴェドン。そして、ダイアナ・ヴリーランド。彼女こそ『パリの恋人』の編集長のモデルとなった人。見るからにパワフル!

ドヴィマとリチャード・アヴェドンの集大成の一日が1955年8月にやって来ます。パリ・コレクションの撮影のために、冬限定で開かれるシルク・ディヴェール(冬のサーカス)の象を使って撮影を行いました。

その時の、衣装は、ディオール。しかし、その衣装はクリスチャン・ディオール本人のデザインによるものではなく、この年6月20日にアシスタントとして採用された19歳の青年によるものでした。その人の名をイヴ・サンローランと申します。

この作品は「ハーパーズ バザー」の1955年9月号に掲載されました。フォトグラファー、ヘンリー・クラークが「ヒョウのようだ」と形容し、ファッション・ライター、ジュデス・サーマンが、「人間の形をした霊感の書のひと筆」と表現したドヴィマの人間離れしたポージングが、サーカス象の訓練ルームという味気ない空間に魔法をかけ、「パリの街」の華やかさとは、対極の不思議なエレガンスを生み出したのでした。

それはこのディオールを着る女性は、明らかに別次元の神の啓示を伝える祈祷師のようであり、「新しい美のカタチ」を伝えにきた神官のようでした。ファッション・フォトが、「美の創造」へと向かう革命の始まりでした。そして、この時から、ファッション・モデルはただのマネキンから美の表現者の役割を担うようになるのでした。

リチャード・アヴェドンはのちにこの写真について、〝彼女のエレガンスとパワーの頂点〟と評しました。

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『パリの恋人』。その後・・・

ジャック・ファットを着るドヴィマ。背景はモネの「睡蓮」、1956年6月号。「ヴォーグ」。

ヴェネツィアーニを着るドヴィマ。1958年8月、NY。リチャード・アヴェドン。

ファッション・モデルとして成功の頂点に達した時に、出演したのが、1956年6月に撮影された『パリの恋人』でした。そして、ドヴィマは女優に転向したいと考えるようになりました。

一方、実生活においては、「彼女は男性運が悪く、いつも青痣を顔に作って私の家に逃げ込んできました。暴力を振るう男とばかり付き合い、稼いだお金を好き勝手に使わせていたのです」と85歳にして現役のスーパーモデル、カルメン・デロリフィチェは回想しています。

2度目の再婚をしたドヴィマは、NY7番街にある9部屋もあるアパートメントに住み、毎晩のように夫と外出し散財しました。

1958年ドヴィマ、一人娘と。

ドヴィマと娘アリソン。1960年代。

1958年に娘のアリソンが生まれ、彼女のモデルとしての時給は75ドルになりました(当時のファッション・モデルの給与としては破格)。彼女は人当たりが良く人気者でしたが、入国管理局の職員をしている二番目の夫の散財が多く、彼女自身もアルコールのトラブルと、撮影現場への遅刻が増えるようになりました。


そして、1959年、彼女はリチャード・アヴェドンに撮影されたこのはしごから降りるときに、引退を決めたのでした。この時「これが最後の撮影よ」とアヴェドンに言い放ったのでした。

結局二度の結婚も失敗し、娘とも引き離され、ロサンゼルスに出て、テレビの仕事をするのですが、「0011ナポレオン・ソロ」のチョイ役で出演した以外は対した仕事もなく、職業を転々とする中で給与も下がり、洋装店の売り子になりました。

そんな不遇な生活の中、1975年に肺炎にかかり、1984年にフロリダの両親の家の近くに引っ越し、化粧品販売員をしたり、トゥー・ガイズ・ピッツェリアのホステスをしたりして生計を立てました。

そして、三度目の結婚をバーテンダーとするも、すぐにその夫を癌で亡くし、1986年、自分自身も乳癌になり、乳房切除手術を受けてからは、アルコール中毒がより酷くなり、1990年5月に死去します。死んだときにはたった100ドルしか持っていませんでした。

しかし、彼女の後半生が、どうであろうとも、1950年代にドヴィマが残したものは、これからのファッション業界に生きていく人々、そして、ファッションを愛する人々にとって「啓示的」であり、私たちが、急速に失ってしまった〝ファッションの中にある大切な感覚〟を蘇らせてくれる永遠の輝きを放っています。

そういう意味において「ドヴィマ・ウィズ・オードリー・ヘプバーン」は、〝不滅のファッション・モーメント〟なのです。

作品データ

作品名:パリの恋人 Funny Face (1957)
監督:スタンリー・ドーネン
衣装:ユベール・ド・ジバンシィ/イーディス・ヘッド
出演者:オードリー・ヘプバーン/フレッド・アステア/ケイ・トンプソン/ドヴィマ