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ブランド香水聖典ペンハリガン

【ペンハリガン香水聖典】華麗なる英国文化の香り

ブランド香水聖典
©Penhaligon's
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ペンハリガン

Penhaligon’s 1870年に、英国・ロンドンで、ハマム(ヴィクトリア時代に流行したトルコ式公衆浴場)専属の理髪師だったウィリアム・ペンハリガンにより創業された「ペンハリガン」。その2年後にハマムをテーマにした「ハマンブーケ」を生み出し、31年後には、英国王室御用達にまでなりました。

しかし、第二次世界大戦中のザ・ブリッツ(ロンドン大空襲)により、店舗が破壊され、ブランドとして衰退の一途を辿ることになります。そんな中、1975年に、一人のイタリア人女性が救世主として現れました。彼女の手により、「ブルーベル」「リリー オブ ザ バレー」などの名香が生み出され、ペンハリガンは見事復活を遂げるのでした。

そして、時が経ち、20世紀末に、ブランドは再び衰退へと向かい始めました。まさにペンハリガンは二度死ぬ!そんな時に再び一人のイギリス人女性が救世主として現れたのでした。トレードルート コレクションポートレート コレクションをはじめとする以後の世界的な人気は皆様のご存知のとおりです。

英国王室御用達のフレグランス・ブランドとして一言で片付けられがちなペンハリガンの本質には、「華麗なる英国文化」を売りにして世界市場を席巻するしたたかさがあります。日本にとって、これほど見習うべき部分の多いブランドは他にはないのではないでしょうか。

代表作

ハマンブーケ (1872)
ブレナム ブーケ (1902)
リリー オブ ザ バレー (1976)
クァーカス (1996)
オーパス 1870 (2005)
サルトリアル (2010)
ジュニパー スリング (2011)
エンプレッサ (2014)
ルナ(2016)
エンディミオン コンサントレ (2016)
ザ トラジェディ オブ ロード ジョージ(ジョージ卿の悲劇) (2016)
ソラリス (2023)

ペンハリガンの香水一覧
ポートレート コレクションの全て
トレードルート コレクションの全て

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英国の二大フレグランス・ブランドのひとつ

©Penhaligon’s

大雑把な話にはなるのですが、英国文化を二分するフレグランス・ブランドはどこかと問われたならば、それはペンハリガンとジョー・マローン・ロンドンで誰も異論はないでしょう。前者は、英国の貴族文化を体現し、後者は、英国の自然とガーデニングに対する愛情と庶民の生活を体現しています。

特に、ペンハリガンのポートレート・コレクションは、英国精神そのものであり、まるでジョゼフ・ロージーが監督したダーク・ボガード主演の『召使』(1963)を見ているかのような、英国の貴族文化の魅力と陳腐さを皮肉たっぷりに香りにした革命的なコレクションと言えます。

「ロイヤルワラント(英国王室御用達)」という一言では言い表せぬほどに、古き良き伝統と、シャーロック・ホームズやエルキュール・ポワロのような皮肉に満ちたスノビズムとがない交ぜになっており、その魅力はとても奥深い。

それは香りに対する知識はもちろんのこと、英国文化に対する教養が求められるという点においては、敷居の高いフレグランス・ブランドのひとつとも言えます。

どのメディアもこの類稀なるフレグランス・ブランドの正確な姿を捉え切れなかったのは、ペンハリガンの魅力を理解していくために必要な事実を一切見ずに、「ロイヤルワラント」の一言で片付けてきたからでしょう。

恐ろしく、専門的な特集となりますが、シーズンを4つに分け、この香りの大英帝国の歴史を紐解いていきましょう。

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シーズン1 ウィリアム 帝国のはじまり

©Penhaligon’s

ペンハリガンは1870年に創業しました。日本ではつい2年前に戊辰戦争が行われ、明治政府が樹立されたばかりでした。一方、フランスでは、まさに普仏戦争が勃発しようとしていました。そんな激動の時代に、このブランドは産声をあげたのでした。

創業者のウィリアム・ペンハリガンには、謎が多い。それは公式データにおいてさえ、最初の理髪店が、1870年にオープンしたという記載と、1874年にオープンしたという記載の二種類が存在することからも窺い知れます(ただし、創業は1870年で統一されている)。

真実はこうです。ウィリアムは、1837年1月27日に、ケルト文化とアーサー王伝説の誕生の地コーンウォールにある港町ペンザンスに生まれました。1861年から、地元で理髪師兼調香師として働いていた彼は、1869年に、一家でロンドンに住居を移します。

そして、ジャーミン・ストリートにあるハマム(トルコ式公衆浴場)で理髪師として働くようになるのでした。やがて、彼は、ここで香水と理容品を販売するようになり、1872年に最初の香り「ハマンブーケ」を誕生させることになるのでした。

企業精神の旺盛なウィリアムは、1874年に、理髪師の先輩であるジーベンスとこのハマンを購入し、ブランド発展の土台としました。そして、1880年に、ジャーミン・ストリート66番地に理髪店兼香水ショップ「ペンハリガン&ジーボンス」をオープンするのでした。

その間、ウィリアムは宮廷お抱えの理髪師となり、自社の製品を上流社会に売り込んで人脈を着実に作り上げてゆきました。そして、1891年には、二号店をセント・ジェームス・ストリート33番地にオープンしました(一号店と繋がっている。ペンハリガンの紹介写真でよく登場する白黒写真は、この店舗の写真)。

1902年にウィリアムは死去しました。同時に、既に亡くなっていたジーボンスの名はブランド名から取り除かれたのでした。

ウォルター・ペンハリガン、1907年。©Penhaligon’s

1901年に父ウィリアムから事業を引き継いでいた息子のウォルター・ペンハリガンは、1902年に、第9代マールバラ公からオーダーを頂き作り上げた「ブレナム ブーケ」を発表し、ペンハリガンの英国における地位を更に不動のものとしました。そして、ついに1903年にアレクサンドラ王妃から初のロイヤルワラントを授けられたのでした。

1920年代に、ベリー・ストリートに店舗をオープンし、拠点を移しました。しかし、ペンハリガンも時代の激動の波に飲み込まれていきました。1941年に、ナチスドイツのザ・ブリッツ(ロンドン大空襲)により、一号店とハマンは全壊したのでした。

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シーズン2 シーラ 復活の女神

シーラ・ピクルス

ベリー・ストリートに唯一存在したペンハリガンの店舗は、1950年代半ばにジオ エフ トランパーに買収されました。そして、1956年にエディンバラ公よりロイヤルワラントを授けられた栄誉を最後に、ゆっくりとペンハリガンはマーケットから消えようとしていたのでした。

そんな時に、ひとりの救世主が現れたのでした。その人の名をシーラ・ピクルスと申します。

彼女は、1960年代より、『ロミオとジュリエット 』(1968)『エンドレス・ラブ』(1981)などで有名なイタリア人映画監督兼オペラ演出家であるフランコ・ゼフィレッリの私設秘書を務めていました。フランコは、彼の師匠であるルキノ・ヴィスコンティが愛する「ハマンブーケ」を生み出したペンハリガンというブランドをとても愛していました。

1975年に、彼はペンハリガンを買収し、シーラに全権を委ねました。そして、彼女は、コヴェント・ガーデンに店舗をオープンしたのでした。この時、ボトルキャップが四角に変更されていたのを、ウィリアムがデザインしたオリジナルの「ハマンブーケ」のボトルと同じようにラウンド・ストッパーと大きなリボンに戻しました。

1975年から1998年までシーラは、ペンハリガンの責任者として、ウィリアムとウォルターが調香したレシピを徹底的に分析し、過去のヘリテージを復活させただけでなく、新たに調香師を雇い、女性のためのさまざまな伝統的な花の香り(「ブルーベル」「リリー オブ ザ バレー」など)を生み出していったのでした。

そして、ダイアナ元妃や若き日のトム・フォードをはじめとする著名人の愛好家をどんどん獲得していったのでした。1985年には、彼女の努力の結晶ともいえる店舗を、バーリントン・アーケードにオープンしました。それは、ジャーミン・ストリートにあったウィリアムの一号店からすぐ近くの場所に位置します。

1988年に、シーラは念願を果たしました。プリンス・オブ・ウェールズ(彼は特注ヘアポマードを愛用していた)から二つ目のロイヤルワラントが授与されたのでした。

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シーズン3 サラ 世界帝国へ

サラ・ロザラム

しかし、世紀末を迎え、再び、ペンハリガンは、時代から取り残されようとしていました。そして、2002年に、ラルチザンと共にフォックス・ペイン・アンド・カンパニー(Fox Paine & Company、アメリカ企業)にペンハリガンは買収されたのでした。

レブロンの創立者チャールズ・レブソン(1906-1975)に師事し、エスティローダー移籍後は、グローバル・プレジデントとしてジョー・マローンの世界進出を見事成し遂げたロバート・ニールセンをCEOに据えたコスメ会社クレイドル・グループを発足させ、その傘下にラルチザンと共に入ることになりました。

ようやく第二の救世主の女性の名をご紹介することが出来ます。彼女の名を、サラ・ロザラムと申します。

2000年から2007年にかけてリテール・コントローラーとして、モルトン・ブラウンの世界進出を手がけ、毎年2桁の売上伸長率を実現させ、2005年に花王に売却させた実績を引っさげて、2007年よりペンハリガンのジェネラル・マネージャーに就任したのでした。

そして、ナタリー・ヴィンチグェッラという元々ロレアルで7年間キャリアを積み、香水に関するベストセラー作家となった女性をクリエイティブ・ディレクターに抜擢したのでした(2007年1月~2015年12月)。

2009年9月からはクレイドル・グループ全体のCEOに就任したサラは当時僅か32歳でした(ラルチザンの最高責任者にもなる)。そして、ベルトラン・ドゥシュフールオリヴィア・ジャコベッティオリヴィエ・クレスプアルベルト・モリヤスといったスター調香師をただ招聘するだけでなく、共同で魅力的な香りを生み出していくことに成功したのでした。

この新機軸により「アマランシィ」「サルトリアル」「ジュニパー スリング」「エンプレッサ」などの名香が生み出され、「トレードルート コレクション」も成功させました。と同時に、特にアジアを中心とした世界的な販売網の拡大を実現したのでした(僅か7年間で900万ポンドから3500万ポンドに売り上げを上げ、それまで90%だった英国の売り上げ比率を、50%にして、世界進出を本格化させた)。

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シーズン4 ランス 世界制覇へ

©Penhaligon’s

2014年6月にサラからランス・パターソンがCEOを引き継ぎました(サラは2017年以降ミラー・ハリス・パルファムのCEOに就任)。

さてこのランスこそが、現在のペンハリガンの興隆の象徴ともいえるポートレート コレクションを生み出した人なのです。彼は、2000年から2006年にかけてLVMHグループのコスメ部門にてアクア・ディ・パルマなどで経験を積んでいました。

アイデアマンとして実績を積み重ねていき、2007年から2014年にかけてピーター・トーマス・ロスの共同社長として、このスキンケア・ブランドに、奇跡的な成長をもたらしました。

かくして、業績を上げ続けたペンハリガンは、ラルチザンと共に、レバレッジド・バイアウトされ、2015年1月にスペインのプーチ社に売却されたのでした。

現在のペンハリガンのフレグランスは、全ての商品はハンプシャーで作られているのですが、クリエーションとマーケティング・チームはパリに常駐しており、そこで全ての香りのイメージの構想が練られ、調香師を選抜するという流れになっています。最終的に商品が棚にのるまでに、9ヶ月から24ヶ月の期間をかけて作り上げられます。

ちなみにペンハリガンは2017年より、ビスポーク・フレグランスのサービスを35,000ポンドで提供しています。アルベルト・モリヤスがあなたのためにペンハリガンの香りを作ってくれるというサービスです(200ml×2)。