作品データ
作品名:華麗なるギャツビー The Great Gatsby (1974)
監督:ジャック・クレイトン
衣装:セオニ・V・アルドリッジ
出演者:ロバート・レッドフォード/ミア・ファロー/ロイス・チャイルズ/サム・ウォーターストン/ブルース・ダーン/カレン・ブラック
「狂乱の20年代」を代表するファッション・アイコンの誕生
1971年から77年までの6年間、私は数本の映画に出演した。けれどイギリスで暮らしたこの年月、私の人生の中心は家庭だった。
ミア・ファロー
『ローズマリーの赤ちゃん』で1960年代のファッション・アイコンになったミア・ファロー(1945-)は、この作品で1920年代=『狂乱の20年代』のファッション・アイコンになりました。彼女自身の生まれていない時代におけるファッション・アイコンになり得るところが、映画が持つファッションに対する圧倒的な力なのです。ファッション・ショーやファッション誌がファッションに対して示しうる力が(一部のごく稀な例を除いて)一瞬であるならば、映画がファッションに示しうる力は永遠なのです。
さて、ミア・ファローという女優は本当に不思議な女優です。彼女自身は、『八十日間世界一周』(1960)でアカデミー脚色賞を受賞した映画監督ジョン・ファローと『類猿人ターザン』(1932)などで活躍した女優モーリン・オサリヴァンの娘として、ビバリーヒルズのプールや映画室のある大邸宅のハリウッド・セレブとして生まれました。そんな彼女が通常の2世スターの生き様を歩まなかったのは、彼女の自伝に記されている冒頭の文章に全てが記されています。
九歳になった日、私は、子供であることをやめた。・・・小児麻痺のおかげで、私は子供の生活から引き離された。・・・九歳になったとき私は、それまで当然のこととして受けとめていた生活が、ちょっとしたきっかけでいかにもろく崩れさるか、身をもって知った。幸せな日常からある日突然引き離され、不安と恐怖、影の世界に放りこまれることもある。人は、ほんとうの意味では何も所有することは出来ない。何かを得られるのは、自分が他人に与えようとするときのみ、与えるという行為を通じてのみなのだ。
ミア・ファロー自伝より
『華麗なるギャツビー』のデイジー・ブキャナンとは程遠い感覚で生きてきた彼女だからこそ、デイジーを演じることが出来たのでしょう。
映画スターとしてハリウッドで生活するよりも、世界の社会情勢や貧困問題、芸術に興味のあるミア・ファロー。そして、何よりも自分の価値観に従って足で行動する女性。だからこそ60年代に誰よりも早くインドにヨガの思想を学びに行き、ビートルズと合流したり、スウィンギング・ロンドンの真っ只中、ロンドンのアメリカ人として、60年代のファッション・アイコンになったり、ポップ・ミュージックの神様フランク・シナトラと30歳離れた結婚をしたり、さらには70年代において、クラシック音楽界の新進気鋭の指揮者であり『マイ・フェア・レディ』の映画音楽も手がけたアンドレ・プレヴィンと結婚するという色々な価値観を吸収する生き方が出来たのでしょう。
そんな彼女が、1970年代に積極的に行っていたことは、安定した家庭生活と世界中の身体の不自由な孤児を支援する活動でした。最終的に14人の子供を持った彼女は、そのうち10人は養子であり、多くは身体障害者の有色人種でした。彼女は、常に行動する女性でした。そんな彼女が、家庭が人生の中心だった時期に、出演したいと願った数少ない作品のうちの一つが、『華麗なるギャツビー』だったのです。
パールをくわえるアイコニック・デイジー
デイジー・ブキャナン・ルック1 オープニング・ドレス
- スパンコールとビジュー付き、ラッフルスリーブ、ローウエストのシフォンワンピース
- 白のノースリーブシルクワンピ
- 首にスカーフ、カルティエのブローチ
- 白のアンクレットパンプス
- ダイヤのイヤリング、35万ドルの一連ロングのパールネックレス、ダイヤモンドは全てカルティエ、デザイナー:アルフレッド・ デュランテ
- カルティエのダイヤのネックレス
この繊細で美しい小説は商業主義によって元の姿とは似ても似つかぬほどにいじくりまわされ、あたかも「風と共に去りぬ」ばりの大河ドラマのようにして公開されたのだった。
ミア・ファロー
本作が製作された1973年から74年にかけ、アメリカは長引くベトナム戦争に対する厭戦気分と、ウォーターゲート事件におけるリチャード・ニクソン大統領に対する不信感に包まれていました。そして、人々はヒッピー達の薄汚れたライフスタイルにもうんざりしていました。
そんな倦怠感に満ちた社会背景が、アメリカが最も輝いていた時代といわれた1920年代に対するノスタルジックな空気を生み出したのでした。〝狂乱の20年代〟と呼ばれるジャズ・エイジの絶頂期におけるロング・アイランドの大富豪たちの世界を描いたF・スコット・フィッツジェラルドの「グレート・ギャツビー」ほど、その空気を描いた文学作品はありませんでした。
もともと、1926年に、原作者本人も立ち会って撮影された映画化第一作と、1949年に『シェーン』のアラン・ラッド主演による映画化第二作がありますが、両作とも興行的に成功せず、版権を持つ原作者の娘フランシス・スコット・フィッツジェラルドは、もう二度と映画で観たくないと語るほどでした。
そんな中、パラマウント映画者の若き製作部長ロバート・エヴァンスは、『ある愛の詩』(1970)と『ゴッドファーザー』(1972)の大ヒットにより、手にした発言力をフルに生かし、三度目の正直として「グレート・ギャツビー」を当時の妻アリ・マッグロー主演で映画化することにしたのでした(アリはこの作品を暗誦できるほど愛していた。そんな彼女への結婚プレゼントとしてデイジー役は捧げられた)。
しかし、この時思わぬ事態が起こるのでした。『ゲッタウェイ』で競演したスティーヴ・マックイーンと熱愛関係になるのでした。〝私こそはデイジー・ブキャナンを演じるために生まれてきた〟と考えていたアリは、スティーヴこそギャツビーに相応しいとまで言い切ってしまい、妻を寝取られたことを知ったエヴァンスは二人の出演オファーを蹴り、デイジー役のオーディションを行うことにしたのでした。
このオーディションには、キャンディス・バーゲン、キャサリン・ロス、シビル・シェパード、ライザ・ミネリといったオーディションには参加しない当時のスター女優まで参加し、フェイ・ダナウェイにおいては専属のメイクアップ・アーティストとヘア・ドレッサーを連れて、4時間かけて準備したほどでした。
そんな『風と共に去りぬ』以来の大オーディションが行われている中、ロンドンに住んでいたミア・ファローは、エヴァンスに「あなたのデイジーになれるかしら?」という電報を送ったのでした(かつてエヴァンスは『ローズマリーの赤ちゃん』を製作していた)。そして、ロンドンでオーディションが行われ、電撃的に彼女がデイジー役を勝ち取ったのでした。