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ジャック・ゲラン 三代目調香師、シャリマーを作った男

調香界のスーパースター達
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調香界のスーパースター達
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ジャック・ゲラン

Jacques Guerlain 1874年10月17日、フランス・パリで生まれる。叔父であるゲランの二代目調香師エメ・ゲランにより才能を見い出され、1890年に、弱冠16歳にして後継者として英才教育を受けることになる。そして、1895年に晴れて三代目調香師に就任する。

就任後、オーストリア=ハンガリー帝国の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の皇后エリーザベトの専属調香師のような役割をつとめながら、ヨーロッパ最後の宮廷文化の空気を吸収する。

ゲラン帝国が21世紀においてもフレグランス帝国として君臨するための全てを、父ガブリエルと兄ピエールと共に築き上げる。生涯で80以上の香りを調香する(商品化されていないものを入れると400以上のフォーミュラを生み出した)。

中でも、「アプレロンデ」(1906)「ルール ブルー」(1912)「ミツコ」(1919)「シャリマー」(1925)「夜間飛行」(1933)は、歴史的名香として普遍の輝きを放ち続ける。

そして、彼こそが、エメ・ゲランが生み出したゲルリナーデを、ゲラン帝国の『ナポレオン法典』へと昇華させた人なのです。

代表作

ムシュワール ドゥ ムッシュ(1904)
アプレロンデ(1906)
ルール ブルー(1912)
ミツコ(1919)
シャリマー(1925)
夜間飛行(1933)

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ゲラン帝国の後継者になった16歳の青年

オーストリア=ハンガリー帝国皇后エリーザベトの専属調香師になる。

ピエール=フランソワ・パスカル・ゲラン(1798-1864)によって、1828年に創業したゲランは、1862年に息子のエメ(1834-1910)が二代目を継承し、1889年に「ジッキー」を生み出しました。この香りから、香りは天然香料と合成香料の組み合わせによって、複雑な物語を語ることが出来るようになりました。

子供がいなかったエメは、ジェネラル・マネージャーとしてゲラン帝国の根幹を支えてくれていた弟ガブリエル(1841-1933)の息子ジャックの類稀なる才能に目をつけていました。そして、1890年に、弱冠16歳にして後継者として英才教育を施すことになりました。

ジャック・ゲランは、ガブリエルとその妻クラリスの次男として1874年10月17日に、パリ近郊のコロンブにあるゲラン家の別荘で生まれました(兄ピエールと三人の姉妹がいた)。彼は一族の伝統に従い、イギリスの寄宿学校で初等教育を受け、高等教育はパリで受けました。

1890年に最初の香水「アンブル(Ambre)」を作成したジャックは、同時期、パリ大学で、シャルル・フリーデルの下で、有機化学を学びました。そして、この時期、エス・テー・デュポンのために香りつきのインクを創作しました。

1895年に晴れて三代目調香師に就任し、1897年に父ガブリエルと兄ピエールと共に、ゲラン帝国の経営権を継承されたのでした。1898年には、彼の生涯の香りのテーマのひとつとなる〝東洋に対する憧れ〟から生み出された香り「ソウカ(Tsao Ko)」を生み出しました。

この時期、ジャックは主に、オーストリア=ハンガリー帝国の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の皇后エリーザベト(1837-1898、愛称「シシィ」)の専属調香師のような役割も果たしていました。

皇后エリーザベトは、1889年に息子ルドルフ皇太子が自殺し、精神的に大打撃を受けており、死ぬまで喪服を脱ぐことはありませんでした。そんな彼女の唯一の慰めが、この青年が作る香水だったのでした(そして、エリーザベトも1898年に暗殺された)。

サラ・ベルナール、1864年

1900年には、ゲラン家の友人である当時の大女優サラ・ベルナール(1844-1923)のためにフローラル・レザーの香り「ヴォワラ・プークワ・ジャメ・ロジーヌ」を作りました。

この香りは、同年のパリ万博で発表され、フレグランス部門の金賞を獲得しました。

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41歳で、戦場で片目を失う。

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ジャック・ゲランは、「ベール ド マダム(婦人のベール)」(1901)のペアフレグランスという当時としては斬新な概念で、1904年に「ムシュワール ドゥ ムッシュ=(紳士のハンカチーフ)」を結婚する新郎とその友人のために調香しました。

そして、1905年にリリと結婚し、翌1906年に「アプレロンデ」が誕生しました。この香りは彼の印象派絵画への愛を香水の創作へと昇華させた意欲作でした。

1911年にスルターンのハーレムの側室たちからインスパイアされた「キャディーヌ(カディーン)」が発表され、一度もアジアを訪れたことのないジャックの東洋へと憧憬が、東洋の美術収集へと駆り立てることになりました。さらにゴヤやマネ、モネ等の印象派の絵画も収集するようになりました。

1912年に調香した「ルール ブルー」は、太陽を盗まれ、光を失いつつある空が、一つ目の星を見つけ出すまでの〝中断された青い時間〟をイメージした香りでした。それはまさにジャックが印象派の画家たちから受けた影響の集大成とも言える香りでした。

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そして、この時、香水瓶にはじめてバカラ社製「ジャンダルム(逆さハート)」を使用したのでした。この頃からジャックは、香水のボトルデザインの重要性を感じ、彼自身もアイデアを積極的に出そうと、ブティックで直接顧客からアイデアを聞いていました。

1914年に、ゲランはシャンゼリゼ通り68番地に新店をオープンしました(1912年から建築)。しかし、すぐに第一次世界大戦(1914-1918)が始まり、8月1日の総動員により、41歳で3児の父親だったジャックも徴兵されることになりました。

塹壕戦の中、ジャックを慰めてくれたのは、ハンカチに湿らせた「ルール ブルー」の香りでした。しかし、戦闘で頭部に傷を負い、片目を失明するのでした。以後、車の運転も、乗馬も出来なくなりました。

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シプレの「ミツコ」と、オリエンタルの「シャリマー」

1968年。©GUERLAIN

ジャック・ゲランの覚醒は、戦後に始まります。モダンシプレの歴史は、1917年にコティ社から発売された「シプレ(ル シープル)」から始まりました。そのシプレノートを、2年後の1919年に、ジャックは更に進化させた形で「ミツコ」を生み出したのでした。

1963年。©GUERLAIN

さらにアール・デコが誕生した、1925年4月28日から開催されたパリ万国博覧会において、世界最初のオリエンタル・ノートである「シャリマー」も誕生したのでした。そして、このシャリマーにより、ゲランはアメリカ市場進出を果たすことになるのでした。

ジャック・ゲランの香りの特徴は、ベルガモットをはじめとする大量のシトラスがトップノートに使用されている所にあります。

それは「アプレロンデ」のアイリス・ヴァイオレット、「ミツコ」のシプレ、「シャリマー」のオリエンタルに対峙させることによって、香りの物語に〝勢い〟と〝生命力〟を与えることになるのです。

ティエリー・ワッサー

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「夜間飛行」=緑の革命

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最後のジャック・ゲランの傑作は、サン=テグジュペリが書いた小説『夜間飛行』から生まれました。彼は1931年に出版されたこの小説の「人間の緊張した意志の力によってのみ到達できるあの自己超越の境地」というテーマの崇高さと、物語の持つセンチメンタリズムを香水に投影出来ないものかと考えました。

そして、当時非常に大胆な香料と見られていたガルバナムをはじめとするグリーンノートを使用することにより、1933年に「夜間飛行」が誕生したのでした。そして、1935年にヴァンドーム広場に二号店が誕生しました。

ルカ・トゥリン曰く、ジャック・ゲランは一種の天才であり、その才能は、あるオリジナルの香りを再解釈し凌駕するという作業において発揮されると評しています。

その例として、コティの「ロリガン」(1905)に対する「ルール ブルー」(1912)、コティの「シプレ」(1917)に対する「ミツコ」(1919)、コティの「エメロード」(1921)に対する「シャリマー」(1925)といった具合にです。

しかし、シルヴェーヌ・ドゥラクルト(元ゲランのクリエイティヴ・ディレクター)は、その指摘を否定しています。「アプレロンデ」(1906)が「ルール ブルー」を生み、1909年にジャック・ゲランが生み出した「シプレ ドゥ パリ」が商業的な成功を収めることは出来なかったが、「ミツコ」を生み出した。さらには、「ジッキー」(1889)で生み出されたオリエンタルアコードが、ジャック・ゲランの「シャージュ」(1907)を経て「シャリマー」を生み出したという具合にです。

ジャック・ゲランの全ての香りにはオポポナックスが処方されています。

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第二次世界大戦で最愛の息子を失う。

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順風満帆に思えたジャック・ゲランの人生は再び戦火に翻弄されます。1939年9月1日に第二次世界大戦が始まり、末息子のピエール(1918-1940)が徴兵され、1940年5月のナチス・ドイツのフランス侵攻における戦闘で重傷を負い、この傷がもとで21歳の若さで亡くなりました。

そして、同年6月14日にドイツ軍がパリ無血入城したこともあり、ジャックは精神的に打ちのめされ以後2年間香りを作ることが出来なくなりました。さらに、1943年にはベーコン レ ブリュイエールのラボが2回爆撃されました。

ジャックは、パリ郊外のレ メニュルの別荘で、フルーツと野菜を栽培し、軍需工場の労働者に寄付して時を過ごしました(1947年に新たなラボと工場がクールブヴォアに建設された)。

1944年8月25日パリ解放されるも、ゲランは根拠のないナチス・ドイツへのコラボラシオン(対独協力)の噂に晒され、ジャックは酷い鬱に悩まされました。そして、調香を再開するも、心の痛みは治まらず、レ メニュルで、ラン栽培や日本庭園等のガーデニングに没頭するようになりました。

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「シャンダローム」の香りを嗅ぎ、天に召される。

ジャン=ポール・ゲランとジャック・ゲラン、1956年。©GUERLAIN

ジャック・ゲランは、社交家ではなく、インタビューを受けることも一切なく、調香プロセスや私生活についても一切語ることはありませんでした。しかし、ジャン=ポール・ゲランに対して、コティの新香料を開発する能力の高さや、エルネスト・ボーアンリ・アルメラス(「ジョイ」の調香師)といった同時代の調香師を称えていました。

1955年に、後継者として英才教育していた当時18歳のジャン=ポール・ゲランと共に「オード(Ode)」を競作しました。これは彼が愛してきた自宅の庭園に捧げられた香りでした。

ちなみに、ジャックの現存する写真は、1956年にしぶしぶ許可を与えたウィリー・ロニによるものしか存在しません(エール・フランスの機関紙記事のための写真)。

ジャックは、「シャンダローム」(1962)をジャン=ポールと共に調香していたときに、自分の能力が失われたことを悟りました。そして、ジャン=ポールに「残念ながら、私はもう老婦人のためのパフュームしか作れないようになりました」と言い、清く引退したのでした。

そして、しばらく後に、転倒事故で大腿骨を骨折し、寝たきりになっていました。1963年5月2日、88歳のジャックがいよいよ最後の苦しみを感じ、狂ったように叫んでいる中、ジャン=ポールはジャックの最愛の妻に捧げられた香り「ルール ブルー」のムエットを差し出しました。

すると、ジャックはより怒り狂い、そのムエットを跳ね除けたのでした。そして、次にあわてて「シャンダローム」のついたムエットを彼に差し出したのでした。その瞬間、ジャックの表情は微笑むような至福の表情になり、2時間後に天に召されたのでした。