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ピエール=フランソワ・パスカル・ゲラン ゲラン帝国の始祖

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その他ゲランブランド調香師調香界のスーパースター達香りの美学
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ピエール=フランソワ・パスカル・ゲラン

Pierre-François-Pascal Guerlain 1798年4月3日、フランス北部・ピカルディ地方のアブヴィルで生まれる(ちなみにマリー・アントワネット専属のファッション大臣となるローズ・ベルタン 1747-1813 もこの町の出身)。

フランスで最も古い調香師の1人であり、ゲラン帝国の始祖。19歳で、フレグランス販売員として働き、20代で3年間、産業革命の真っ只中にある英国に渡り、科学・医学・調香・石鹸作り等を徹底的に学ぶ。

1828年にパリの高級ホテル「ル・ムーリス」の一階に香水店を創業。そして、1853年に、フランスのウジェニー皇后のためにオーデコロンを作り、ヨーロッパの全ての王族の御用香水商となる。

彼が歴史に残した香りは、ひとつだけだが、フランスのフレグランス文化の基礎を打ち立てた〝フランス香水の父〟。

代表作

オーインペリアル (1853)

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ゲラン帝国の秘密は、創業者の3年間の英国生活にある

©GUERLAIN

ゲランを愛する人々にとって、ジャック・ゲランジャン=ポール・ゲランの偉大さは伝わりやすいのですが、創業者であるピエール=フランソワ=パスカル・ゲランについては実に伝わりにくく、ただ単に、ヨーロッパの王族の名声にぶら下がり成り上がった人という印象さえも受けてしまう紹介文がとても多いです。

ところが、実際のところ、ピエールこそが、ゲラン帝国を帝国とならしめた始祖であり、ゲランのみならず近代香水の発展を牽引した大立役者だったのでした。香りがまだ単一の花かオーデコロンしか存在しなかった時代に調合香料を考え出し、香りに音楽の役割を与えたのは、ピエールその人だったのです。

そして、そんな斬新な香りを生み出すことが出来たからこそ、ヨーロッパの全ての王族が、競って彼を王室御用香水商として認可したのでした。

ピエール=フランソワ=パスカル・ゲランは、フランス北部・ピカルディ地方のアブヴィルで、白目(ピューター)細工職人として店を開き、成功を収めていた父親と(1805年に)僅か28歳で亡くなることになる母親の間に生まれました。

父親は、やがてスパイス交易にも手を伸ばし、貴重なスパイスの香りに囲まれながらピエールは育ちました(この生活環境が彼の後の人生に与えた影響は多大だった)。1817年に19歳になったピエールは、暴力的な気質の父親から逃れるために、故郷から単身パリに上京しました。

パリで香水製造業者メゾン・ブリアードで販売員として働くことから彼のキャリアははじまります。その後、1822年にL.T. ピヴェールで働き、香水製造や美容の分野において目覚しい発展を遂げていた産業革命真っ盛りの英国に渡る決意をするのでした。

そして、英国で3年間医学と生化学を学び、1826年に英国でヨハン・マリア・ファリナの「オーデコロン」を輸入する商社を作り、販売しました。その間、石鹸製造と香水調香の腕も磨きあげるのでした。

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ヨーロッパの全ての王室の御用香水商となる

ウジェニー・ド・モンティジョ

1828年に帰仏したピエールは、パリのリヴォリ通り42番地にある高級ホテル「ル・ムーリス」の一階に最初の店をオープンしました(ホテル自体は1817年創業。5つ星ホテルのさらに上に君臨する「パラス」を冠しているフランスの31のホテルのうちのひとつ)。

英国からの輸入石鹸を販売し、ヴィクトリア女王のお気に入りである「ロシオン ド ゴーランド」「ロイヤル エクストラクト オブ フラワーズ」といった香水を輸入販売しながらも、現在のシャルル・ド・ゴール広場周辺に壮大な自社工場を建造し、「サントゥール デ シャン (田園の香り)」などのオリジナルの香水の販売を開始しました。

さらにアルカリ剤の大量生産により流行の兆しを見せていた(水酸化ナトリウム溶剤と脂肪酸の化合物である)石鹸の製造販売も強化しました。

やがて、オノレ・ド・バルザックやアレクサンドル・デュマなどの文豪が集まり、定期的に店舗内で、文学集会を開き、パリの上流階級のサロンのような人気スポットとなる。さらには、当時の人気ファッション雑誌「お洒落の本、ラ・シルフィード」のために、それぞれの号ごとに異なるゲランの香りを付けるために、特別調香も行いました。

1837年に、債権者に追われ、「フィガロ」紙からも前金分の原稿をせっつかれ困憊していたバルザックのために、気付け薬のように執筆をはかどらせる為のオーデトワレを調香しました。その効果によるものかは定かではないですが、バルザックは僅か17日間で350ページの原稿からなる『セザール・ビロトー』という調香師をモデルにした小説を書き上げた。

1838年には、ゲランはコスメと口紅のラインを立ち上げ、1842年にラ・ペ通り(ナポレオンがパリで一番美しくしようとした通り)15番地に移転しました。

オークモスの持つ可能性に目をつけたピエールは、1840年に「シプレ」という名の香りを生み出しました。

上流社会の婦人のためにオーダーメイドで香りを創り、瞬く間に評判となり、1842年にはベルギー王妃、1844年にはイギリス女王の御用香水商となり、1850年にロンドンに出店しました。

そして、(日本で幕末がはじまった年)1853年1月30日にノートルダム大聖堂でロイヤルウエディングを挙げナポレオン3世と結婚し、フランス皇后になったウジェニー・ド・モンティジョ(1826-1920)のためにピエールは、ひとつのオーデコロンを献上したのでした。

帝政様式の香水瓶「ゴールデンビーボトル」に封入し「オー デ コロン イムペリアル」と名づけられたこのコロンを皇后がとても気に入ったことにより、ゲランはフランス王室御用香水商として認可を受けるのでした。

1862年にピエールは、息子のエメを後継者として指名し、引退します。そして、1864年11月2日に永眠するのでした。かくしてゲランは、二代目調香師時代へと突入していくのでした。「ジッキー」誕生まで、あと25年の時を待たなければなりません。

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ピエール=フランソワ・パスカル・ゲランの作品


オーインペリアル(1853)

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