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アニック・グタールブランド香水聖典

【グタール香水聖典】そして、はじめて香水は感情を持つことになった。

アニック・グタール
©Goutal Paris
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グタール

Goutal 1981年にアニック・グタールは、パリのベルシャス通りにある古本屋を改装した小さなフレグランス・ショップをオープンしました。すべては自分の〝感情〟に忠実に、愛する人たちと自分自身に向けたフレグランスを生み出すためでした。

かつてピアニストを目指し、ファッション・モデルとして英国で活躍したアニック・グタールという女性が生み出した数々の香りは、明らかに当時の他のブランドのフレグランスと違いました。

アニックの香りには、ストーリーがあり、感情がありました。まるで香りで描く絵本を読み聞かせている(もしくは読み聞かされている)気分になりました。それは彼女が裕福な環境で生まれ育ち、美しい物や美しい感情に包まれて生きて来たからでしょうか。

彼女の生き様が香りにも表れているようです。そうなのです、アニック・グタールの香りから、〝はじめて香水は感情を持つようになった〟のでした。

1981年の「オーダドリアン」は、ブランドを興隆へと導くロングセラーとなりました。そして、1985年からはイジプカを卒業したばかりのイザベル・ドワイヤンが加わり、アニックの右腕として、より本格的な香りを生み出す原動力となりました。やがて、晩年には「プチシェリー」「ス ソワール ウ ジャメ」といった永遠の名香を生み出してゆきました。

1999年にアニックは癌で53歳の若さで亡くなり、その遺志を継ぎ、愛娘のカミーユ・グタールがイザベルと共に、より魅力的なメゾン・フレグランス・ブランドへと進化させました。

2012年には、香りでファンタジーを生み出すという奇跡を「ニュイ エトワーレ」でやってのけました。現在のアニック・グタールは、2011年8月に韓国の化粧品大手アモーレパシフィックに買収され、2018年にブランド名を〝グタール〟へとスリム化し、今に至ります。

代表作

オーダドリアン(1981)
プチシェリー オードトワレ(1998)
ス ソワール ウ ジャメ(1999)
ラ ヴィオレット(2001)
ル シェブルフイユ(2002)
アン マタン ドラージュ(2009)
ニュイ エトワーレ(2012)
ローズ ポンポン(2016)
ニュイ エ コンフィダンス(2017)

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元祖メゾン・フレグランスの始祖アニック・グタール

アニック・グタール

私が作る香水とは… まずパズルを連想してください。私の香りが、あなたの肌と心に届くとき、感情のピースが埋められてゆくのです。

そして、愛する人や、幸せを感じた場所・瞬間、そういう想い出の懐かしさでいっぱいのパズルが完成していくのです。これが私の香水です。

アニック・グタール

元祖メゾン・フレグランスと呼ばれるフレグランス・ブランドが二つあります。一つは1976年に創業されたラルチザン、そしてもうひとつが、1981年に創業されたアニック・グタール(現グタール)です。

創業者のアニック・グタールは、1946年にフランスのエクサンプロヴァンスで8人の子供(6人が女子)の三女として生まれました。父はチョコレートが主体のスイーツショップを経営する菓子職人でした。

そして、アニックは少女時代に、チョコレートを詰めた袋をリボンで結ぶお手伝いを日課としていました(後に彼女はこのリボンの想い出を香水作りに結びつけることになります)。

アニックは少女時代から毎日8時間ピアノを練習し、ヴェルサイユ音楽院で学びました。まさに音楽の世界におけるエリートコースを歩もうとしていたのですが、卒業後、ピアニストの道を断念し、ロンドンでオペア留学します。

60年代半ばのロンドンはスウィンギング・ロンドンと呼ばれるファッションを中心とした若者文化の開花により活気に溢れていました。

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ファッションモデル時代のアニック・グタール

ファッション・モデル時代のアニック・グタール ©Goutal Paris

ファッション・モデル時代のアニック・グタール ©Goutal Paris

母は、誰かに言われたからではなく、思いついたらすぐに実行に移す人でした。

カミーユ・グタール

そんなある日、ホストファミリーの家族の友人の『ヴォーグ』の専属フォトグラファーのデヴィッド・ベイリー(当時、ベイリーはカトリーヌ・ドヌーヴと結婚していた)が、アニックを一目見て、ファッションモデルとしての才能を見出したのでした。

そして、ジェラルディーヌというモデル名を名乗り、ハーパーズ バザーの一面を飾り、瞬く間にトップモデルとして10年間活躍するようになったのでした。

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アニック・グタール、グラースに向かう

ファッション・モデル時代のアニック・グタール ©Goutal Paris

最近は、香りの裏にストーリーがあるブランドも増えてきていますが、その元祖とも言えるのが、母アニックが生み出した香水の数々なのです。

カミーユ・グタール

やがて、新しいことに挑戦するためにパリに戻ったアニック・グタールは、「フォラヴリル」という名のアンティークショップをオープンさせ、1975年に、古美術商と出会い恋に落ちカミーユが生まれました。

しかし、1977年に乳癌になったため「フォラヴリル」を閉めました(3人の姉妹も若くして癌で亡くなっていた)。そして、闘病生活を経て、アニックは人生の短さとはかなさを知り、自分が最も行いたいことに挑戦するのでした。

親友のミシュリーヌ・ペロー(カミーユの名付け親)と、スイスの高級化粧品の流れを汲む自家製フェイスクリームを使った美容ビジネスをすることになりました。しかし、アニックはこの美容品に欠けているものが、(変な香りがしたのでその香りを消す)香りと魅力的なパッケージであることに気づいたのでした。そして、グラースに向かったのでした。

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アンリ・ソルサナと「オーダドリアン」

©Goutal Paris

グタールの香水のクリエイションの核となるのは、〝感情〟です。私たちは自分の感情や記憶だけを駆使する。それが他の香水ブランドとの違いです。私たちは、香りに感情を込めるようにしているのです。

カミーユ・グタール

アニック・グタールは、グラースで香水文化に触れ、一瞬で恋に落ちました。そして、1977年にロベルテの調香師であるアンリ・ソルサナの協力を得ることに成功しました。グラースから30分の距離にあるコート・ダジュールに面した都市アンティーブに移住し(カンヌとニースの間に位置している)、4年間調香について学んだのでした。

その時、青春時代をピアノに捧げてきたオルガン、音符、ハーモニー、タッチという音楽と共通の言語の中から、聴覚ではなく嗅覚に変換して何かを創造するという作業にのめり込んでいったのでした。

アンリ・ソルサナは、ロベルテのロレアル・グループ(ランコム、アルマーニなど)、ディオール、パコ・ラバンヌ、ジャン=ポール・ゴルチエ、エルメスのために香水を作っていました。そして、5年が経過した後、花王コーポレーションがアンリを採用し、日本の若手の調香師の訓練や香水販売の土台を作りをしたのでした。ちなみに、ステファン・アンベール・ルカのメンターでもあります。

1979年にアニックは父親から30,000フラン借り『アニック・グタール』を創業しました。そして、サルソナの協力の下、1980年に処女作である「フォラヴリル」と「オーダドリアン」を完成したのでした。

自宅での直販を経て、ベルシャス通りの古本屋を改装し、一号店を1980年12月にオープンしたのでした(公式では1981年が創業年となる)。

「オーダドリアン」は、発売当時非常に珍しい男女共に身に纏うことが出来るユニセックスのシトラス・フレグランスということもあり、売れ行きも良かったため、1981年に本格的な工場生産に踏み切ることになったのでした。

この香りの存在があればこそ、1990年代のフレッシュでクリーンな香りが到来したと言われるほど、その先駆けとなり、それらの香りを作った調香師たちに影響を与えたのでした。

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二人の娘のために生み出した香り

©Goutal Paris

今まで存在したあらゆるフレグランスと違うのは、アニック・グタールは彼女自身の感情や気持ち、思い出などを元にして創作されていたこと、つまり自分が好きなものをそのまま香りに込めていたことです。

カミーユ・グタール

ブランド創業前夜のある晩、アニックは偶然、ヴェルサイユ音楽院時代の10代の頃に、恋に落ちていたアラン・ムニエと再会し、再び恋に落ちました。当時すでに彼は有名にチェリストになっていました。そして、1980年に再婚したのでした。

実は、アニック・グタールの香りが、美しい音楽の調べのように心に染み入るのは、彼女が調香しているその隣の部屋で、夫アランががコンサートのためにチェロの練習をしているという恵まれた環境の賜物でもありました。

母はヨハン・ゼバスティアン・バッハがとても好きでした。特に無伴奏チェロ組曲とゴルトベルク変奏曲が好きでした。他にシューマン、シューベルト、ショパンのピアノ曲、特にショパンの「夜想曲」が好きでした。

カミーユ・グタール

アニックは、1982年にアランの連れ子シャルロットのために「オードシャルロット」を調香しました。さらに1983年にはカミーユのために「オードカミーユ」を作りました。

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グタール帝国の影の女帝ブリジット・テタンジェ

30歳のときのアニック・グタールと娘のカミーユ。

アニック・グタールとカミーユ。

私の母は、内面も外面もとても素晴らしい人でした。彼女が部屋に入ると、みんな、特に男性は「ああ…」と言うだけでした。母は本当に純真な女性で、優しく、賢く、感情や気持ちを分かち合うことにかけては非常に情熱的な人でした。

彼女が人生で望むすべてのもののために戦いました。そして、母は健康を害し、乳癌と卵巣癌で亡くなりました。人間にとって、痛みや苦悩を経験するということは、人生の良いところを見つけるための試練であるとも言えます。

母は、本当に前向きで、いつも笑顔で人生を楽しむ人でした。

カミーユ・グタール

しかし、利益を度外視して、少量生産のために、天然香料をふんだんに使用していたため会社は大赤字となり、1985年にシャンパーニュ・メゾンのテタンジェに持ち株の60%を売却し、経営権を放棄することになりました。

同年、アニックはアンリ・ソルサナの下での修行を終え、独り立ちするためにラボを持ち、1982年にISIPCAを卒業したばかりのイザベル・ドワイヤン(1959-)を調香師として加えました。そして、アメリカ進出を果たすことになります。しかし、ことあるごとにテタンジェの会長ジャン・テタンジェがクリエイションに口出ししてくることに嫌気が差したアニックは、1988年に乳癌を再発し、会社から離れ闘病生活に入りました。

そして、更に業績が悪化する中、ジャン・テタンジェジュは1991年に姪っ子のブリジット・テタンジェを最高責任者(~2012年)にして、ブランド再建を託すことにしたのでした。

ブリジットは、ブランド再建のために最も重要なことは、アニック・グタールを呼び戻し、完全に自由な環境でクリエイションさせることだと考えました。かくして、叔父ジャンの猛反対を押し切り、アニックは再招聘したのでした。

そして、復活したアニックは、90年代のサックス・フィフス・アベニューやニーマン・マーカスにおいてトップ5入りするほど売れる香りを創造し、結果的に6年後の1997年にアニック・グタールは黒字になったのでした。

しかし、既にアニックの肉体は長年の癌に蝕まれていました。最後の力を振り絞り、1998年に娘カミーユに捧げる「プチシェリー」、翌1999年に別れの歌「ス ソワール ウ ジャメ」を世に出し、発売を見届けた後、8月にアニックは癌で亡くなりました。

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カミーユの覚醒

アニック・グタールとカミーユ。

カミーユ・グタール ©Goutal Paris

カミーユ・グタール ©Goutal Paris

カミーユ・グタール ©Goutal Paris

母がブランドの中で最も大切にしていて精神。それは〝自由〟です。トレンドやマーケティングを気にすることなく、自由にクリエイション出来ることがグタールの強みなのです。

カミーユ・グタール

1999年にカミーユがイザベル・ドワイヤンと共にアニック・グタールを引き継ぐことになりました。

カミーユ・グタールは、アニックの前夫との間に1975年に生まれました。イザベルはカミーユが10歳の頃よりよく知っていました。フランスでは小学校は毎週水曜日休みなので、毎週水曜日にカミーユは母のラボを訪れていたのでした。

ルーブル美術館付属学校で美術、写真、デザインのコースを受講し、17歳で自立し、フォトグラファーとしてのキャリアを順調に積んでいました(13歳のときに父親から貰ったカメラがきっかけだった)。

21歳の時に、タトゥー・アーティストのステファンと結婚し、1998年に一人目の子を授かります。そして、1999年8月の母アニックの死後、24歳でイザベルから香水についての英才教育を受けることになったのでした。

フォトグラファーとしては、「マリ クレール」や「ヴォーグ」などの雑誌、パリのプレタポルテのショーなどの仕事をしていました。

そして、27歳のとき、完全にフォトグラファーの仕事を辞め、フルタイムでアニック・グタールの調香師として働くことになりました。さらに、5年の歳月をかけて2006年に処女作「ソンジュ」を生み出したのでした。

私とイザベルは老夫婦のようなものです。いつも協力し合い、すべてを共有し、取り組んでいます。時には、作業に行き詰まったときに、お互いの香りを交換し合うこともあります。厳密なルールはありません。でも、お互いが好きでないフレグランスを手がけることは絶対にありません。私たちは、自分たちのアイデアのために戦い、完璧主義者をいつも目指しているのです。自分たちのやることを信じています。

カミーユ・グタール

2005年9月に、アニック・グタールは、スターウッド・ホテル&リゾート(シェラトンホテル、ウエスティンホテルなど)の傘下に入りました。そして、2008年に、赤字から一転し、黒字になりました。

2011年8月に韓国の化粧品大手アモーレパシフィックに買収され、「アジアの顧客の好みに合った新作フレグランスで、日本や中国を中心としたアジア市場を拡大する」ことを重要視しました。そして、2018年には「アニック・グタール」から「グタール」にブランド名を変更しました。それに伴い、すべてのグタールの香水はシャルトルで生産されることになりました。

プロである必要はありません。香りが好きか、そうでないか。香水に惹かれるのは、それが何かを思い起こさせるからです。好きな香りを嗅ぐと、それはまるで恋のようで、夢見心地になるのです。

カミーユ・グタール

私はいつもパリのグタールの販売員に必ず言うことがあります。それはお客様の香りの感想に対して決してノーを言わないように、ということです。30~50の成分で作られているフレグランスの中で、販売員が知らされているのは、5つくらいであり、お客様の中には、直感で表に出されていない成分を言い当てる方もおられるということなのです。

香りを語る上で、間違いは許されないのです。だから、お客様の香りの感想に対してノーと言うことは許されないのです。

カミーユ・グタール

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イザベル・ドワイヤンについて

イザベル・ドワイヤンとアニック・グタール ©Goutal Paris

カミーユ・グタールとイザベル・ドワイヤン ©Goutal Paris

最後にイザベル・ドワイヤンについてお話しましょう。イザベルは1959年8月10日に生まれました。気象学者の父の仕事柄、タヒチで幼少期を過ごし、熱帯の花々やエキゾチックなフルーツの香りに囲まれて育ちました。

7歳頃に、母の香水について気になるようになりました。母が愛用していたのはゲランの「ミツコ」とロシャスの「ファム」でした。そして、バルマンの「ヴァンヴェール」をはじめて貰い、香水の虜になったのでした。その後、親友が愛用していた香りがシャネルの「N°19」であることを知り、自分も愛用するようになりました。

高校を卒業し、植物生態学の勉強をしたいと思っていた20歳のときに、ゲランに勤めていた父親の友人が、ISIPCA(イジプカ)の存在を教えてくれ、1979年にイザベルは入学することになりました。1982年に卒業した後、調香師のモニーク・シュリンガーに師事しました。

そして、1985年から彼女の代わりにイジプカで嗅覚トレーニングを担当することになりました。同年、モニークがアニック・グタールを紹介してくれたことによって、母アニックと娘カミーユに渡る友情がはじまることになるのでした。そして、アニックと共に二人の専用ラボ「アロマティック・マジョール」を設立したのでした。

イジプカでは、フランシス・クルジャンマチルド・ローランなど多くの調香師を育成してきました。彼女のお気に入りの香料は、ローズ・エッセンス、タラゴン、ガルバナム、ブラックカラント、ヘディオン、エバニールです。