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作品データ
作品名:マイ・フェア・レディ My Fair Lady (1964)
監督:ジョージ・キューカー
衣装:セシル・ビートン
出演者:オードリー・ヘプバーン/レックス・ハリソン/ウィルフリッド・ハイド=ホワイト
豪華な宝石に包まれて、それ以上に輝ける女性
レディと花売り娘の違いは、どう振る舞うかではなくどう扱われるかです。
劇中のイライザの台詞
「この英語ではこの娘も一生貧民窟暮らし。だが私なら半年で大使館の舞踏会に公爵夫人として出してやる」というヒギンズ教授の台詞通りに、コックニー英語を話すイライザの英語を見事に矯正したのですが、舞踏会一のレディとして脚光を浴びたイライザが、浮かれ騒ぐヒギンズ教授に対して冷たく言い放つ一言です。
イライザ・ドゥーリトル・ルック10 ホワイト・イブニングドレス
- 白のイブニングドレス、全体にビーズが施されたレースが重なる
- 白いサテンのロンググローブ
- 高く結い上げた髪にティアラ
- ネックに豪華なジュエリー・チョーカー
- ワインレッドのロングガウン、バックもボートネック
私も落ちたものね。花は売っても、体は売らなかった。でも、レディになったら、体しか売れないのね。
劇中のイライザの台詞
マイ・フェア・レディのこのドレスは、日本のウエディング雑誌でよく取り上げられるドレスなのですが、よくその中で、〝ジバンシィによる〟という但し書きが書かれているドレスです。そういった意味においては、そのファッション誌の編集システムが機能しているかを確認できるリトマス試験紙ドレスとも言えます。
最近の、ファッション誌の傾向として、永遠のファッション・アイコンという打ち出しで、20世紀の女優達を取り上げていることが多いのですが、それを書くエディターが、その時代の映画や女優に全く無知であり、ただ使い古しの常套文句を表面的にさらっとすくったような「小学生の100文字感想文のような」薄っぺらな記事や、間違いだらけの情報の羅列が増えてきています。どういった年齢層をターゲットにするにせよ、ファッション誌からファッションに関する正確な文章が失われる先に残るのは、ただ単に顧客に媚びた提灯記事のオンパレードであり、それはただただ、アパレル広告誌の誕生に過ぎません。
本作には、ユベール・ド・ジバンシィのデザインによるドレスは、一切登場しません。全てはセシル・ビートンによってデザインされたものです。この舞踏会のシーンのドレスはグレーでまとめられたセットに、シャーベット・カラーのイブニング・ドレスが贅沢に溢れかえっています。華やかで優美だったエドワード7世の時代(1901-1910)の余韻を、これほどみごとに再現したセットと衣装はかつてありませんでした。
そして、オードリー・ヘプバーンの角張った顔を目立たせないように、蜂の巣のように高く結ったヘアスタイル。高く結い上げた頭にダイヤモンドのピンを留め、長い首にはダイヤのチョーカーを高々と巻き、細い腕に白いサテンのロング・グローブをつけています。
ファッションとは何か?それは最大の欠点を、唯一無二の美の個性へと転化させる芸術的な試みなのです。ファッション雑誌が売れなくなった理由はただひとつです。それは美の画一化が進んだからなのです。いつの間にか、日本では若さが絶対であり、お金持ちの未亡人が絶対であるようになったのです。
どのファッション誌を見たところで、内容は対して変わりません。膨大な広告と、浅い内容の記事と、さらに浅い内容のファッション・アイコンの賛美のオンパレードです。私たちはそろそろ知りたいのです。なぜオードリー・ヘプバーンは、世界的なファッション・アイコンと呼ばれているのか?もはやファッションというものを理解することが、ただ写真を見るだけで十分だという認識を否定しなければなりません。ファッションを理解するためには、膨大な文章が必要なのです。