ミシェル・アルメラック
Michel Almairac 1953年、グラース生まれ。ルール・ベルトラン・デュポン社(現ジボダン)のパフューマリースクールに1972年に18歳で入学し、卒業後、高砂に移り、最初のヒット作であるディオールの「ファーレンハイト」(1988)を世に出し、ヒットメーカーとしてのキャリアをスタートさせます。
その後アロマティクス・クリエーションズ(現・シムライズ)に移りニコスの「スカルプチャー オム」やラルチザンの「ヴォルール ド ローズ(バラ泥棒)」等のヒット作を手がけ、ドイツのフレグランス・ハウスのドロム(Drom)を経て、ロベルテ社に入社します。
2016年9月10日に、息子ベンジャミンが、父ミシェルのために、ニッチ・フレグランス・メゾン『パルル モア ドゥ パルファム』をオープンし、一切の制限なしに自分が創造した香りを生み出す機会を得て、今に至る。
私はいつもシンプルで短いフォーミュラを使います。その理由は、間違って一からやり直すことになったとしても、修正しやすいからです。昔、上司がなぜそんな短いフォーミュラを使うのかと聞いてきたことがあります。
私はただ「短い方が間違いを見つけやすいから」と答えました。それは、若き調香師時代の怠け癖から始まったものです。300の香料を量るより、30の香料を量る方が簡単ですからね。
ミシェル・アルメラック
代表作
アンブレット 9(ル ラボ)
ヴォルール ド ローズ(バラ泥棒)(ラルチザン)
ギモーヴ ドゥ ノエル(パルル モア ドゥ パルファム)
グッチ プールオム(グッチ)
クロエ オードパルファム(クロエ)
ゴースト(ゴースト)
コロニア エッセンツァ(アクア・ディ・パルマ)
スカルプチャー オム(ニコス)
ZEN(資生堂)
セント オブ ピース(ボンド・ナンバーナイン)
ディス イズ ハー!(ザディグ エ ヴォルテール)
ファーレンハイト(ディオール)
ボッテガ ヴェネタ(ボッテガ・ヴェネタ)
ボディ(バーバリー)
ボワ ダンサン(ジョルジオ・アルマーニ)
ミルキー ムスク(パルル モア ドゥ パルファム)
ユヌ トン ドゥ ローズ(パルル モア ドゥ パルファム)
ラッシュ(グッチ)
【クロエ】クロエのローズ革命の全て
【パルル モア ドゥ パルファム香水聖典】叶わなかった愛が、いちばん美しい。
ディオールの「ファーレンハイト」からはじまる栄光の道
私にとって香水は、何よりも〝感情を揺り動かす見えないアルバム〟であるということです。まるで個人的な記憶の毛布に完全に包まれるようです。実際、香水には、(普段は忘れている)心に刻まれた瞬間の記憶を呼び起こすユニークな能力があります。
ミシェル・アルメラック
ブランドのためにフレグランスを作るのがとても楽しいのは、ブランドの世界観の真髄でなければならないという、プレッシャーとの戦いでもあるからです。
だからこそ、配合する香料がごくわずかであればあるほど、生み出される香りはユニークで特徴的、かつ認識しやすいものになると信じています。ブランドと密接に結びついた強力なシグネチャー、これが私がフレグランスを作ろうとする時のビジョンです。
これを達成するためには、信じられないほどの回数(約5000回)の実験が必要で、数年に及ぶこともありますが、最終的な結果は、その努力に見合うものです。
ミシェル・アルメラック
19世紀のクラシック音楽家のような、一度見たら忘れることが出来ない力強い風貌のミシェル・アルメラックは、1953年にグラースで生まれました。
別名・香水の都とも言われるグラースはカンヌから電車で25分、ニースから電車で1時間という風にフレンチ・リヴィエラから少し離れた丘の上にある人口5万人の都市です。そのうち約15000人が香水産業に従事しており、約60の香料会社があります。
そんな香水の都で生まれたミシェルの香りの思い出は〝12歳くらいの時、よく実家のふもとにある廃墟となった香料工場で、樽や蒸留器、放置された庭で遊んでいた〟ことでした。
そして13~14歳の時に、ルール・ベルトラン・デュポン社(現ジボダン)の香料工場を訪れ〝白衣を着て、作業に励む従業員の芝居がかったミステリアスな一面に魅了され〟、香りに関わる仕事をしたいと考えました。ただし、科学は大嫌いでした(のちにミシェルは、「私が調香師になったのは、グラースで生まれたことと、勉強が出来なかったこと。この二つの理由からでした」と皮肉交じりに告白しています)。
やがて、18歳になった1972年に、ルール社のパフューマリースクール(ラボに併設された夏期講座のようなもの)に入学しました。
ラボで一番最初に夢中になったのはオリス・ルートの香料の研究でした。以後、精力的に活動していたミシェルはすぐにルール社のジャン・アミックの目に留まり、新設するパリ支店の支店長に抜擢し、ミシェルは1978年に、パリのモンソー公園の近くに居を構えることになるのでした(今もパリ在住)。
1980年に高砂に移り、1988年に、最初のヒット作であるディオールの「ファーレンハイト」を世に出し、ヒットメーカーとしてのキャリアをスタートさせます。
ミシェル・アルメラックの『奇跡の3年間』
私の中で、不滅の香水は何かと聞かれたら、1966年にエドモン・ルドニツカが作ったディオールの「オーソバージュ」をあげます。フレッシュなシトラスの香りと、今日よく使われている合成香料ヘディオンを初めて使用し、ジャスミンのような香りを生み出すきっかけになった香水です。
ミシェル・アルメラック
1983年に発売された「ロンブル ダン ロー」は、まさにアバンギャルドで、真の意味で革命的な香りでした。私は今でも衝撃を受けた瞬間を思い出せます。調香師たちがフレッシュな香りに向かうスターターピストルが鳴り響いた瞬間でした。
当時、新しい分子を使った画期的なこの香りの価値を知る人はほとんどおらず、その扱い方を知っている調香師はさらに少なかった。セルジュ・カルギーヌは、それを完璧な割合で使用し、その時期に生産されていた他のどんなものよりも優れた香りにしました。
ミシェル・アルメラック
その後アロマティクス・クリエーションズ(現・シムライズ)に移りラルチザンの「ヴォルール ド ローズ(バラ泥棒)」(1993)やニコスの「スカルプチャー オム」(1995)等のヒット作を手がけ、ドイツのフレグランス・ハウスのドロム(Drom)を経て、1998年にロベルテ社に入社します。
そして、グッチの「ラッシュ」(1999)、「グッチ プールオム」(2003)の成功を経て、〝限られた予算の中で素晴らしい作品を創り出す稀有な才能を持っている〟と業界的に大いなる評価を受けることになり、2006年から2008年にかけての『奇跡の3年間』と呼ばれる、ミシェルが『巨匠』と呼ばれることになる日々が始まるのでした。
この『奇跡の3年間』にミシェルは、ルラボ「アンブレット 9」(2006)、ボンド・ナンバーナイン「セント オブ ピース」(2006)、資生堂「ZEN」(2007)、クロエ「クロエ オードパルファム」(2008)を生み出します。
香料に対して個人的なお気に入りはありません。正しい香りの特徴を作り出すために、私は常に新しい組み合わせを探し求めています。
私にとって、香りの創造は料理や絵画のようなものです。シェフが特定の食材を好むとしても、その組み合わせがすべての違いを生むのです。多くの場合、調香師はある素材に好意を抱いています。しかし、彼らがあまり好まないものは、単に彼らが正しく理解していない材料だからだと思います。
ミシェル・アルメラック
沢山のスター調香師たちの〝先生〟であり〝お父さん〟。
私がジュネーブで最初のフォーミュラを作っていたとき、彼(ミシェル・アルメラック)は1日に3回もグラースから電話をかけてきて「クリスティーヌ、なぜその成分を加えたんだ」と聞いてきました。
もし私が答えるのに3秒以上かかったら、彼は「それを取り除け!」と言うのでした。その結果、私のフォーミュラはシンプルになったのでした。
クリスティーヌ・ナジェル(エルメスの二代目専属調香師)
私は調香師になるために、天才的な数学や化学の知識が必要だとは思いません。香水は夢の世界であり、厳密な公式の世界ではないのです。昔から、この業界は化学者を探すことに集中しすぎて、才能ある人材を逃しているような気がしています。
だから、私は自分の知識を伝えたいという思いが強く、特に製造現場の調香師の教育に力を入れ、ユニークなプロフィールを持つ若者を定期的に受け入れているのです。
ミシェル・アルメラック
一方で、アルメラックは、先生としてもとても優秀な人で、クリスティーヌ・ナジェル、アン・フリッポ、ジェローム・エピネット、シドニー・ランセスールをはじめとする沢山のスター調香師たちに、〝先生〟または〝お父さん〟と慕われています。
2016年9月10日に、息子ベンジャミンと共に、念願の自分自身のフレグランスメゾン『パルル モア ドゥ パルファム』をオープンしました。
それは、〝お金を生み出す香水を色々なブランドのために作ってきた父親〟への感謝の気持ちを込めて、妻と息子たちが生み出した〝自分のための香り=心の入った香り〟を生み出す環境のプレゼントであり、ブランドの意向に合わせ、〝叶わなかった愛=世に出すことが出来なかった試作品〟を世に出す機会となったのでした。
だからこそ、すべての香りに、奇抜さは一切存在せず、ただ〝心を豊かにする〟〝愛する人への感謝の気持ちを香りで伝える〟〝心に届く〟そういった観点だけが存在するのです。「パルル モア ドゥ パルファム」の最大の魅力は、一緒に生活していて疲れない、時間が経つほどに良さが分かってくる〝静かに、優しくあなたを見守ってくれる〟所にあるのです。
調香師は、フィギュアスケートの選手と同じで、ショートプログラムとフリースケーティングがあるんだ。ショートプログラムとは香料会社で働くことです。ロベルテでは、私自身は巨大な機械の一部のように感じられ、それはそれで悪くないことだと思っています。
しかし、私はマーケティングから自由になり、クライアントが作り出したストーリーではなく、自分自身のストーリーを語りたいのです。『パルル モア ドゥ パルファム』は、私のフリースケーティングなのです。
ミシェル・アルメラック
私の仕事は、正しい配置にこだわっているという点において、もし調香師になっていなかったら建築家や考古学者になっていたと思います。
パリのオフィスにいない時は、機械いじりをしています。自分の手で何かをするのが好きなんです。思索にふけることはほとんどないですね。
ミシェル・アルメラック