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『マイ・フェア・レディ』Vol.2|レディに変身する寸前のオードリーとセシル・ビートン

オードリー・ヘプバーン
オードリー・ヘプバーン
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全てをデザインした男=セシル・ビートン

わたしが再現させたかったのは、第一次世界大戦までに滅びてしまった華やかなる時代である。

セシル・ビートン

ヒギンズ教授宅で、イライザ・ドゥーリトルを「ロンドン一のレディ」に改造していくためのトレーニングが始まります。ここで映し出される邸宅内のエドワード朝時代(1901-1910)のインテリアが本当に魅力的です。

その全ての衣装デザインとセット・デザインを担当したのが、セシル・ビートン(1904-1980)という後にサーの称号を頂く事になる英国のファッション・フォトグラファーです。つば広のボレロハットとサヴィル・ロウで仕立てた上質なスーツがトレードマークのこの男は、188㎝の長身と共に映画俳優顔負けのダンディズムとチャームを兼ね備えていました。

セシル・ビートン

セシル・ビートンとオードリー・ヘプバーン。セシルは、188㎝の長身です。

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ある女優の美に永遠の生命を与える男、セシル・ビートン

セシル・ビートン、1930年。

セシル・ビートンが撮影したエリザベス・テイラー、1957年。

セシル・ビートンが撮影したマリリン・モンロー、1956年。

セシル・ビートンが撮影した女優の写真を見ていると、まるでその女優が、今、目の前にいるような錯覚を覚えてしまいます。それほど彼の撮影する写真は、その女優の絶頂の美に、永遠の生命を与えているような、魔法がかけられているようなのです。

女優の究極の美を不滅のものとした男、セシル・ビートンは、1904年1月14日ロンドン郊外の高級住宅地ハムステッド・ヒースで裕福な材木商の息子として生まれました。父親は、アマチュア劇団の俳優でもあり、幼い頃からセシルを劇場に連れて行きました。一方、ファッション感度の高い母親と、ボリビアの大富豪の夫人になり石鹸ひとつまでパリに買い物に行くファッション狂の伯母が、セシルの美的センスに大いなる影響を与えました。

11歳のときに祖母から買い与えられたカメラが、彼の将来を創ることになります。学業がてんでだめだったセシルは奇跡的にケンブリッジ大学に入学するも、この頃に、裕福だった一家が没落したため働くことになりました。以後、セシルは『ヴォーグ』や『ヴァニティ・フェア』のフォトグラファーとして活躍します。そして、ファッション・フォトグラファーのパイオニアとなりました。

1930年代半ばから舞台衣装をデザインすることになり、40年代に入ると映画衣装も手掛けるようになりました。ヴィヴィアン・リー主演の『アンナ・カレニナ』(1948)など8作品手掛けた後、ハリウッドでも『恋の手ほどき』(本作と同じ時代が舞台)(1958)の衣装をデザインしました。

そんなセシルが、1956年に、ブロードウェイのミュージカル『マイ・フェア・レディ』の舞台芸術及び舞台衣装を担当することになりました。当時、彼はエドワード朝時代に関しては世界一の権威でした。そして、映画化された『マイ・フェア・レディ』の世界作りも一任されたのでした。

本作でもっとも費用がかけられたのはヒギンズ教授の邸宅でした。LAとサンフランシスコのアンティークショップから集められた品々は、洗面台、エドワード朝時代大流行した東洋の美術品、古い肖像写真、レターラック、ドアノブに蝶つがい、浴室の調度品。ヒギンズの書斎に置かれたシガーボックスでさえ、本物のアールヌーボー様式の逸品が探し出されました。

壁紙は当時のデザイン工房ウィリアム・モリスのオリジナルをロンドンで完璧に復元。カーペットもカーテンも糸から厳選して織らせた特注品でした。本作とブロードウェイ版の脚本を担当したアラン・ジェイ・ラーナーは、セシルについて「彼を見ていると、彼がエドワード時代をデザインしたのか、エドワード時代が彼をデザインしたのか分からなくなるほどだった」と回想しています。

結果的に、彼はアカデミー美術賞およびアカデミー衣裳デザイン賞を受賞しました。

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イライザ・ドゥーリトルのファッション3

トレーニング・ウェア1
  • 女学生風のチョコレートブラウン・ビクトリアンドレス、レッグオブマトン・スリーブ、三段フリルスカート
  • ショートブーツ

ヒギンズ教授が仕立てたドレスを着るイライザ。首全体を覆うレースが印象的です。

正面から見ると、このドレスの花びらのような構造がよく分かります。彼女の髪はポンパドールにまとめられ、大きな黒いリボンで留められています。

オードリーのウエストの細さが際立つデザインです。

斜め後ろから見たシルエットがとても素敵です。

実際に動いているシーンを見ると、このドレスの躍動感がよく伝わることでしょう。

オードリーとレックス・ハリソンとジョージ・キューカー

オードリーが最も若々しく見える角度。

ヒギンズ教授からコックニー訛りを治すため、連日連夜のトレーニングを受けるイライザ。

セシル・ビートンによるこの衣装のデザイン画。

作中使用されなかったトレーニング・ウェア。

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エドワード朝時代とは?

ヒギンズ教授の書斎のセットに膨大な予算が費やされました。その調度品の数々は、アンティーク・ショップで当時のものを買い集めたものでした。

インテリア・デザイナーの方々にとってもバイブルのような作品です。

本作の時代設定は1912年です。それは英国王エドワード7世による10年間(1901-1910)のエドワード朝時代と呼ばれる、イギリスの最良の日々の熱気覚めやらぬ時代でした。

彼は。グレンチェック模様の服装を愛したことから、この模様は「プリンス・オブ・ウェールズ(皇太子)」と呼ばれています。エドワードは、長い間、母ヴィクトリア女王(1819-1901)の皇太子でした。

63年7ヶ月と長く続いた先王ヴィクトリア女王時代は、大英帝国が世界各地を植民地化し、その国力を強大なものにした栄光の時代でしたが、1861年に夫君アルバート公が亡くなると、10年以上に渡って服喪し、死ぬまで喪服を脱ごうとしなかった女王陛下のもとでは、厳格な規律やモラルが社会を支配しました。

重苦しい巨大なドレス、顔を包み込む堅苦しい帽子や髪型、そして黒の流行など、女性のファッションも美しさよりも道徳的であることが何よりも大切にされました。しかし、女王からエドワード7世の時代になると、社会の様相は一変したのでした。

社交好きで粋なオシャレを楽しんだエドワード7世に習って、紳士のスタイルも華やかになり、レディのファッションもやわらかい素材や色調が主流になりました。そう、黒のビクトリア朝から白の時代になったのです。モラルよりもパッション、厳しい規律よりも優美さを愛でる心、それがエドワード朝のテイストでした。

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イライザ・ドゥーリトルのファッション4

トレーニング・ウェア2
  • 白のボタンダウンのブラウス、ベル・スリーブ、ホワイト・レーヨン、ラージカフス
  • ベージュのフレア・スカート、ボタンがデコレートされている
  • シルバーバックルのブラウンレザーベルト

(1963年5月18日、オードリーが衣装部を訪れた最初の日)その後オードリーは、イライザの〝レディーになるレッスン〟の時のブラウスやスカートを着て、自分の気持ちと重ね合わせて感動しているようだった。

『マイ・フェア・レディ』日記 セシル・ビートン

このヒギンズ教授のスーツはとてもダンディで、洗練されています。

襟元が特徴的です。

書斎で、ピカリング大佐がしれっと腰かけているこのソファーが素敵です。

少し『ローマの休日』のファッションを思い出させるブラウスとスカートです。

レッスンが進むにつれ洗練されていくオードリーを見ているだけでワクワクします。

ブラウスの質感がとてもよくわかる写真。

現存する実際の衣装。

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イライザ・ドゥーリトルのファッション5

トレーニング・ウェア3
  • 白のバルーンスリーブ・テーラードブラウス、フロントプリーツ
  • ベージュのネクタイ
  • ベージュのプリーツの入ったロングスカート、ウエストが絞られた

アフタヌーン・ティーがとても美味しそうなシーン。

オードリーは、ネクタイをつけたお堅いスタイルも似合います。

ワードローブ・テストの写真。

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イライザ・ドゥーリトルのファッション6

トレーニング・ウェア4
  • レッドドレス、ネックラインに6列の白いクロスステッチのディテール

ほんのちょっとしか登場しないレッドドレス。ビー玉を口に投げ入れて発声練習するシーン。実際はぶどうが使われました。

オードリーはこのシーンの撮影中、どうしてもおかしくなり、途中で何度も笑ってしまいました。

ヘアスタイルをチェックするためのテスト写真。

作品データ

作品名:マイフェアレディ My Fair Lady(1964)
監督:ジョージ・キューカー
衣装:セシル・ビートン
出演者:オードリー・ヘプバーン/レックス・ハリソン/ウィルフリッド・ハイド=ホワイト