ラプチュアー
Rapture 「夢見るNo.1」により、レゲエを自らの音楽に取り入れることに成功したブロンディが、次に目をつけたのは、当時アンダーグラウンドで黒人の間で流行の兆しを見せていたラップでした。そして、生み出されたのが、白人でありながら、史上初めて〝ラップをフューチャリングした曲〟「ラプチュアー」でした。
この曲は、マイク・チャップマンがプロデュースしたフィフス・アルバム『オートアメリカン』(全米7位、全英1位)に収録され、セカンド・シングルとして発売されました。
概要
曲名:ラプチュアー
原名:Rapture
リリース:1981年
最高順位:全米1位、全英5位
ラップミュージックの元祖
ビデオクリップの撮影当日に、ヒップホップの開祖グランドマスター・フラッシュがドタキャンしたため、代わりにジャン=ミシェル・バスキアが、登場することになります。この時バスキアはまだ無名の画家でした。1983年に彼はアンディ・ウォーホルと知り合い、80年代の時代の寵児となります(1988年8月12日オーバードーズで急死)。
かくしてデボラ・ハリーは、史上初めてラップを歌った白人女性シンガーとなったのです。しかも、黒人っぽくラップするわけでもなく、独特な味を出しています。彼女が、現代の女性ポップシンガーにとって女神のように崇拝されている理由は、恐らくこういった先見の明の鋭さと、それを抜け抜けとやってのける度胸にあるのだと思います。
黒い小悪魔のように、バスキアをたじたじにさせながら、時にミック・ジャガー並みに激しく変化する表情で、セットのストリートをラップしながら行脚するデボラと、パリコレなどでヘビロテされそうな、格好良いオープニングのギャップが絶妙です。
ウータン・クランやモブ・ディープといったヒップホップ創成期の黒人たちにとって、1980年代はじめはまだラップがラジオで流されることのない時代だったので、この曲が生まれて初めて聞いたラップだったと回想しています。
カイリー・ミノーグがジャスティン・ティンバーレイクとデュエットしたカバーが実に素晴らしいです。
ブロンディ・ルック25 ホットパンツ
バスキアも目を合わせることが出来ないほどの妖艶さを漂わせるデボラ・ハリー。最も脂が乗っていた時期とも言えます。
そして、そんな彼女が、36歳にして、オールブラックで統一したチューブトップとホットパンツ、ミュール姿で、男たちを翻弄していくのです。この曲は、女性にとっての革命ソングとも言えます。それは、ポップスターが30代であっても、若々しさを武器に出来るという自信を与えてくれる応援歌でした。
この曲以降、ポップスター達は、40代になろうとも50代になろうとも、セクシーさを売りに恥も外聞もなく肢体を曝け出すようになりました。
アンディ・ウォーホル
デボラ・ハリーにとって、1980年に、このPVの衣装を着て、ファクトリーで(マリリン・モンローの肖像画を創作した)アンディ・ウォーホルによって撮影された写真は、シルクスクリーンにより4つの肖像画として永遠のポップアートになりました。デボラにとって、ウォーホルとの出会いは、この後のミュージシャンとしての活動の中でとてつもない財産となりました。
ブロンディ・ルック26 BADシャツ
1977年に制作されたアンディ・ウォーホルの映画『BAD』のロゴシャツを着るブロンディ。このシャツ、シンプルでとてもクールです。
今どこかのブランドが、200枚限定で4万5000円くらいで販売したら即完売しそうです。
ブロンディ・ルック27 ストリートルック
1977年1月1日に撮影したこの写真によって、誰よりも早く、デボラ・ハリーが、ブラック・カルチャーをファッションの中に取り入れていることを教えてくれます。
赤いレザーのベースボールキャップに黒のネッカチーフと同色の「PUNK」シャツにブルーデニム。ストリートっぽくないのはただ一点だけ、デニム・オン・ロングブーツなとこだけ。
ブロンディ・ルック28 女子プロレスラー
デボラ・ハリーをはじめとする70年代後半から80年代にかけてデビューしたポップスター達は、シンディ・ローパーを筆頭として皆プロレスが大好きでした。アンドレ・ザ・ジャイアントの熱狂的なファンだと言われていたデボラは、一方で、ザ・デストロイヤーのファンでもありました。
そんな彼女にとって、膝にサポーターをつける女子プロレスラー・スタイルは、ライブで最も気合が入っているときのお気に入りのスタイルでした。