生徒の持っているブロマイドが、彼女の初登場シーンでした。
ウンラート(ドイツ語で、ゴミ、汚物)教授というあだ名を持つギムナジウムの教師であるラート教授にとって、生徒との関係は、教育とは名ばかりの人間味の欠片もない冷めきった関係でした。弱い者いじめされている真面目な生徒を庇うことなく、安易に、そのいじめに追随するような教師でもあるラート教授は、人間の深淵を知らぬただの権威主義者でもありました。
そんな彼が、いじめっ子達が通っている安キャバレーを訪れたことによってはじめて知る、人間の温かさと冷たさの物語。この物語は、社会の最下層で生きる人々と交流することによって、はじめて人間を知り、冒頭のカナリアのように死んでいった男の物語なのです。不幸のどん底に突き落とされ、行き場所もなく、かつての職場である教室の教壇で死んだ老教授の人生は、かつては喜びとは無縁の人生でした。しかし、ローラ・ローラと出会ったことによって、彼は少なくとも、今までの人生では味わえなかった喜び=鶏のように啼きたくなるほどの喜びを感じることが出来たのでした。
人間味のない日常に支配されていた男が、一人の若き女によって、人間味を取り戻し、滅んでいく様が実に見事に描かれています。だからこそ、このローラ・ローラという女性は、まさに、そういった類の男にとっての「天使」なのでした。それは、カナリアが死んだ後にやってきた、新たなカナリアでもあったのです。
マレーネのために、共演者はすべてデブを選んだ。
ローラ・ローラ・ルック1 踊り子ルック
- スパンコールのヘッドリボン
- スパンコール・ビスチェ、ヒップに大きなリボン
- シルクのガーターストッキングとサスペンダー
- ローヒール・ストラップパンプス
私は『嘆きの天使』は失敗ではないかと思った。この映画は全く月並みで、品がなく、その二つが重なっていたからだ。いずれにせよ、私はそう思い込んでいた。セットでは同時に回っている四台のカメラが私の足の動きをとらえていた。撮影のとき、私はいつも左右どちらかの足をあげていなければならず、カメラは絶えず、私に向けられていた。このことを思い出すと、私はいまだにひどい嫌悪感をもよおす。
マレーネ・ディートリッヒ
1929年11月4日より撮影がスタートしました(1930年1月22日に撮影は終了した)。そして、そのほんの一ヶ月前に世界大恐慌がはじまっていました(1933年1月30日にアドルフ・ヒトラーがドイツ首相に就任する)。当時ワイマール共和国だったドイツという国自体が、まさに安キャバレーの『嘆きの天使』そのものでした。人々は、希望のない日々を過ごしていたのです。
スタンバーグは、出演者に脚本を一切渡さず、物語の進行順に撮影していきました。この作品の恐ろしいところは、マレーネ・ディートリッヒというひとつの神話の誕生を、順を追って見ることが出来るところにあります。最初は美人というよりも可愛らしい女性が、段々とあの退廃的なマレーネへと変貌を遂げていく姿が見れるのです。
そして、もう一点!この作品から、ファッションにおける脚線美の重要性も飛躍的に高まったのでした。