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アンナ・メイ・ウォン1 『上海特急』3(3ページ)

その他の伝説の女優たち
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作品データ

作品名:上海特急 Shanghai Express (1932)
監督:ジョセフ・フォン・スタンバーグ
衣装:トラヴィス・バントン
出演者:マレーネ・ディートリヒ/アンナ・メイ・ウォン

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100年早すぎた〝元祖アジアン・ビューティー〟

『帰らぬ船出』(1934)。衣裳デザイン:トラヴィス・バントン。

神秘的で美しいマーメイドドレス。1925年。

歴代の日本人のファッション・モデルの中でも、恐らく最高峰の存在である山口小夜子(1949-2007)が、最上級の敬意を抱いていた女性の名をアンナ・メイ・ウォンと言う。1920年代から1930年代にかけて、アジア人には活躍する余地がなかったハリウッドとヨーロッパの映画界及び演劇界で、想像も出来ない苦難の果てにスターになった彼女のことを「悲劇の東洋の美女」と呼びます。

人種差別と、第二次世界大戦前夜の不安定な社会情勢の中で、白人社会だったハリウッドにおいて、白人が考える薄っぺらな東洋の神秘を体現する存在になったアンナ。しかし、東洋人が卑下しがちな西洋人の東洋嗜好が、100年近くの時を経て、東洋人自身には描くことの出来なかった〝アジアン・ビューティー〟観を、見事に描き出していたこともまた事実なのです。

西洋人が撮影したアンナの写真はなぜこうも魅力的なのでしょうか?芸術の本質とは、行き過ぎた誤解の中にあるのでしょうか?白人社会から見た東洋の神秘を演じたアンナ。彼女には、今の我々東洋人には決して越えることの出来ない、何かを越えてしまった表現者のみが魅せることの出来る凄みに満ち溢れています。

アンナの写真には、独特なポージングのものが多い。1927年。

それは一人ぼっちの東洋人として欧米社会の映画界と演劇界を渡り歩いた東洋人女性の強烈な意志の勝利なのかもしれません。結果的には、酒に溺れ、孤独の中で、肝硬変という地獄の苦しみを伴う病の果てに、せっかくのチャンスが目の前にやってきた時に、既に肉体も精神もボロボロになって、敗北感に包まれながら死んでいきました。

しかし、彼女が残したものが、彼女の存在を永遠のものに変えたのでした。2004年にはニューヨーク近代美術館で回顧展が開かれ、今では、海外のファッション誌において、頻繁に登場する東洋人女性にとってのタイムレス・アイコンとなっています。

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「私は、いつも、どこでも、一人で戦ってきました」

早川雪洲と共演した『竜の娘』(1931)。

168㎝の抜群のプロポーション。1930年代。

『上海特急』のためのプロモーション写真。

ハリウッドにおいて史上初めて有名になったアジア人女優(中国系)アンナ・メイ・ウォン(1905-1961)。中国移民の3世としてロサンゼルスのチャイナタウンに生まれました。5歳の時にチャイナタウンを出た家族は、彼女を普通の公立学校に通わせましたが、白人生徒から人種差別的ないじめを受け、結局はチャイナタウン内の中華人の学校に転校します。

時代は丁度、ハリウッド映画産業の創成期(1911年~)でした。1919年にサイレント映画デビューしたアンナは、1922年に『恋の睡蓮』で主演を演じ、1924年に、ダグラス・フェアバンクスの『バグダッドの盗賊』に重要な役柄で出演し、有名になります。これは、ハリウッド映画史上初めて有色人種の女優が重要な役柄を演じた瞬間でした。

しかし、当時カリフォルニア州では、1948年まで異人種間の結婚や恋愛関係を禁止する法律がありました(1934年からはヘイズ・コードによって、ハリウッド映画における異人種間の恋愛や性愛描写も禁止された)。そのため、彼女の役柄は、ステレオタイプで人種的偏見に満ちた、非常に限られたものになりました。

そんな苛立ちと共に、1928年に、アンナはヨーロッパに渡り、まずはイギリスで若き日のローレンス・オリビエと舞台共演しました(オリヴィエ自身は、失敗作だったと回想している)。不評だったアメリカン・イングリッシュを克服するために、ケンブリッジ大学で英語のヴォイストレーニングも受け、1929年に英国映画「ピカデリー」に出演しました。この作品こそが彼女の生涯の最高傑作と呼ばれるものです。

更に、ドイツ語とフランス語をマスターし、ドイツでも活躍することになります。そして、アンナは、1920年代のフラッパー・ガールのスタイル・アイコンになりました。この時代にドイツで、マレーネ・ディートリッヒと知り合っています。1930年に凱旋帰国し、ブロードウェイの舞台に立ち好評を得た勢いで、ハリウッドに戻ります。しかし、ハリウッドでは以前と変わらない扱いを受け、失意の中、ヨーロッパに戻ります。そんな時期に出演したのが、本作『上海特急』でした。



その後、1935年に、MGMが、中国を舞台にしたパール・バックの小説『大地』の映画化に乗り出すことになり、アンナもオーディションを受けます。しかし、主演男優が『暗黒街の顔役』のポール・ムニに決定し、ヘイズ・コードに抵触することもあり、ドイツ人女優ルイーゼ・ライナーが、主人公の妻阿藍役を演じ、オスカーを獲得します。一方、アンナは悪役ともいえる蓮華役を依頼されるが、「私はこの役を演じません。阿藍役であれば喜んで引き受けます。しかしあなたは中国人登場人物全てをアメリカ人が演じる映画で、中国人として冷淡な役を演じろというのですね」と言って降板しました。

いよいよハリウッドに失望したアンナは、1936年に中国に渡りました。当初、北京と上海の文化的エリート層からは大歓迎を受けるも、この時期の中国は、戦乱の時代(翌年から日中戦争がはじまる)に突入しており、愛国主義が高まっていました。それ故に、ハリウッドで、中国人として国辱的な役柄を演じたとして、アンナは中華民族の恥として批判される立場に追い込まれました。

結局、祖国アメリカに帰国し、ハリウッド復帰を目論むも、ハリウッドにはもう彼女の居場所はありませんでした(1938年には、LOOK誌において、世界で最も美しい中国女性に選ばれた)。1940年には『大地』(1937)にも脇役で出演していた女優志願の妹(当時30歳)が、ロスの自宅のガレージで首吊り自殺しました。そして、アンナは自身の容貌の衰えも感じ、1942年、37歳の若さで映画界から引退しました。

それから10年の年月が経ち、1951年にアメリカのTVショウで女優復帰します。しかし、不遇の年月が、アンナをアルコール中毒にし、うつ病にも苦しむようになっていました。1960年に、アンナを奮起させるチャンスが訪れました。ナンシー梅木やナンシー・クワンが主演する『フラワー・ドラム・ソング』(1961)で重要な役柄を演じることになったのです。しかし、その時には、アルコールで彼女の身体はボロボロになっており、1960年末に肝硬変のため降板することになりました。そして、1961年2月2日に心臓発作で56歳の生涯を終えたのでした。