ジャン=ポール・ゲラン
Jean Paul Guerlain 1937年1月9日、フランス・パリで生まれる。祖父であるゲランの三代目調香師ジャック・ゲランの下で、1955年より後継者として英才教育を受け、3000種類の香料を嗅ぎ分ける〝神の鼻=ゴッドノーズ〟を持つに至る。
1955年に祖父と「オード」を競作し、1959年「ベチバー」を単独調香し、1962年に晴れて四代目調香師に就任する。1962年に「シャンダローム」、1965年に史上初のオリエンタル系メンズ・フレグランス「アビルージュ」といった名香を20代で生み出す。
1969年に「シャマード」の矢が放たれ、世界中の女性の心に、ゲラン帝国の銅鑼の音が鳴り響く。1970年代後半から1990年はじめにかけて帝国滅亡の危機の中生み出された「ナエマ」(1979)は、当時全く売れなかったが、革命的なピーチローズの香りとして、21世紀にローズの香りを復興させる先駆的役割を果たすようになった。
1989年に誕生した「サムサラ」以降、世界の神秘をテーマに沢山の香りが生み出されるようになる。そして、1999年に、ジャン=ポールは「チェリー ブロッサム」と『アクア・アレゴリア』シリーズのローンチに協力し、2002年に四代目調香師を退任しました。
以後、2003年に就任したクリエイティヴ・ディレクターのシルヴェーヌ・ドゥラクルト、2008年に五代目専属調香師に選ばれたティエリー・ワッサーのサポート役に回り、2010年までゲランとの関係は続く。
2018年に、81歳にして「マイ・エクスクルーシブ・コレクション」という新興ブランドのために4つの香りを調香し、生涯現役をアピールする。
代表作
ベチバー(1959)
シャンダローム(1962)
アビルージュ(1965)
シャマード(1969)
パリュール(1975)
ナエマ(1979)
ジャルダン バガテール(1983)
サムサラ(1989)
チェリー ブロッサム(1999)
『アクア・アレゴリア』シリーズ(1999~)
ドゥーブル ヴァニーユ(2007)
16歳の青年は、目が見えなくなり、鼻の世界で生きることにした。
私が16歳のとき、祖父ジャックはこう教えてくれました。「キミが愛することになる女性のために香水を作ることを忘れないように」と。そして、年を重ね、私は改めてこう考えています。香水にロマンスがなければ、それは香水ではないと。
ジャン=ポール・ゲラン
ゲラン帝国のルイ14世とでも形容すべきジャック・ゲランの後継者として、四代目調香師に就任したジャン=ポール・ゲランにとって、偉大なる祖父が生み出した香りは、大いなる愛であると同時に、大いなる宿敵だったのかもしれません。
しかし、何よりも恐ろしい真実は、ジャン=ポール時代のゲラン帝国もまた三代目に匹敵する名香の数々を生み出したという事実でした。
ジャン=ポール・ゲランは、1937年1月9日にジャン=ジャック・ゲラン(ジャック・ゲランの息子、1906-1997、1974年にISIPCAを設立。ゲラン一族最後の社長、1970-1980)の息子としてパリに生まれました。
幼少期に、ナチスドイツによるパリ無血入城(1940年6月14日)を経験し、シャンゼリゼ通り68番地の4階に住んでいたこの頃に、バルコニーからパリ解放(1944年8月25日)を目撃したのでした。
10代の頃、ジャン=ポールは、文学の教授になろうと考えていたのですが(彼は理数科・化学・物理学が嫌いでしたが、英語・歴史・フランス文学が得意でした)、コンドルセ高等学校在籍時(16歳)に、失明寸前になり、学校を中退することになりました。
やがて、人生に対して失望しか見出せなかったこの時期に、祖父に連れられ、クールブヴォアの工場で香りについて学ぶようになりました。
この時のことをジャン=ポールは、こう回想しています。「16歳で私は、ほとんど失明の状態になり、小犬のように祖父の後ろにいつも付いていきました。それを祖父は、私が香りについて大層興味があると勘違いしたのでした。そして、色々教えてくれるようになりました」
目が見えないからこそ嗅覚が研ぎ澄まされるんだと言わんばかりに、ジャン=ポールは祖父から約3000種の香りを嗅ぎ分ける訓練を施されました。amyl acetate(酢酸アミル)からwintergreen(ウィンターグリーン)までアルファベット順に並んだ天然と合成の香料3000種類を延々と嗅ぐことを何ヶ月も繰り返したのでした。やがて、数回の手術の後、目は回復するのですが、嗅覚の鋭さが衰えることはありませんでした。
一方で、ゲラン一族は代々英国での教育を重んじていました。そのためジャン=ポールは、目が回復すると同時に、英国の祖父の友人であるサー・フレデリック・ヘネシーのもとで英語教育を施されたのでした。そして、同時に年代もののヘネシーのテイスティング技術も磨いたのでした。
帰国後、相変わらず嗅覚のトレーニングに明け暮れていたジャン=ポールの目の前に、「シャンティイ 」と書かれたボトルをジャックは置きました。そして、この香りを再現してくださいと言いました。さらに最上級のこの水仙の精油も再現してくださいと言いました。ジャン=ポールが完成したアコードを嗅ぎ、精油を盗んできたものだと勘違いしたジャックは、目の前で再現させる程に完璧な出来でした。
そして、この香りを確認したとき、ジャックは電話を取り、ジャン=ポールの父(ジャックの息子)に、兄のパトリックではなく末弟の彼を後継者にすると宣言したのでした。
1955年に、二人は「オード(Ode)」を競作しました(ジャン=ポールが半分以上の工程を行った)。そして、これがジャックの最後の作品となりました。その2年後の1957年にパリ16区パッシーにゲランの三号店がオープンしました。
1959年、ゲラン初のメンズ・フレグランスを作る
いつもジャン=ポールが身に纏っていた香りはただひとつでした。それは「アビルージュ」ではなく「ベチバー」でした。
ティエリー・ワッサー
ジャン=ポール・ゲランが最初に単独で調香した香りは、1957年の「パルファン ドゥ ラ レーヌ」でした。この香りは、同年にパリを訪問した英国女王エリザベス2世のために生み出された(彼女が好きなローズとジャスミンの)香りとして、エリゼ宮殿で直接ジャン=ポールの手から女王陛下に手渡されました(この香りは、世界中で一本だけ今も女王陛下の手元にあるという)。
そして、1959年にゲラン初のメンズ・フレグランスとして「ベチバー」は生み出されたのでした。この香りにより、メンズ・フレグランスは、初めて抽象的な概念を付加され、芸術の扉を開けることになったのでした。
まさに、メンズ・フレグランスが芸術を語り始めた瞬間でした。
1962年、ゲラン四代目調香師になる。
彼の作品は、女性を誘惑して所有するという1つの法律のみに従います。ですから、それは暴力的で強力です。彼の香りは、〝香りのマキャヴェリズム〟なのです。
ティエリー・ワッサー
ジャン=ポール・ゲランは、1962年に「シャンダローム」=「香りの賛歌」を調香します。この香りは、1959年に妻となる名家の出であるモニーク(1969年に離婚する。妻は一切家事をしない人だったので、ジャン=ポールはル・コルドン・ブルーに通い、妻のために料理を学びました)がカルヴェンのマ グリフしか使用していないという事実から生み出された香りでした。
〝モニークを振り向かせるために〟なんと7年の月日(つまり1955年にゲランの調香師となるためのトレーニングを開始してから)をかけ、450回もの試香を繰り返し、51種類の花の成分を選抜し生み出し、ジャン=ポールの事実上のファースト・フレグランスが誕生したのでした。
そして、1963年5月2日、88歳の祖父ジャックがいよいよ最後の苦しみを感じ、狂ったように叫んでいる中、ジャン=ポールは「シャンダローム」のついたムエットを彼に差し出したのでした。その瞬間、ジャックの表情は微笑むような至福の表情になり、2時間後に天に召されたのでした。
1965年、史上初のオリエンタル系メンズ・フレグランスを作る。
男性にとって、女性から香り立つバニラの香りは、破滅的な力を持つのです。そして、ふと考えました。一部の食材は、男女共に同じ味を生んでいると・・・ロブスターやバニラ・アイスクリームなどなど。
そして、女性にとって、男性から香り立つバニラの香りも破滅的な力を持つのではないかと考えたのでした。
ジャン=ポール・ゲラン
ジャック・ゲランは死の少し前に、四代目調香師を引き継ぐジャン=ポール・ゲランをはじめとする一族の調香師たちに、遺言のような宿願を託していました。
その宿願とは、自ら調香したオリエンタルの歴史的傑作「シャリマー」の男性用の香りを作って欲しいということでした。かくして1965年に「アビルージュ」は生み出されたのでした。
この香りにより、それまでは女性のためにだけ存在していたオリエンタルという「香りの門」の扉が、男性のためにこじ開けられたのでした(バニラは60年代において、男性のための香りには使用されなかった)。ここに史上初のオリエンタル系メンズ・フレグランスが誕生したのでした。
この香りは「男性のためのシャリマー」とも呼ばれています。つまりは、ゲルリナーデ(ベルガモット、バニラ、パチョリ、トンカビーン)を男性の香りのためにはじめて駆使した香りなのです。
1969年、世界中の女性がゲラン帝国に降伏した瞬間。
フランソワーズ・サガンが1965年に発表した小説『熱い恋』からインスパイアされ、1969年に生み出された「シャマード」は、7年の月日を費やし、1300回以上の試作を重ねた力作でした。
シャマードとは、ナポレオン時代において、軍隊の退却を示す太鼓を叩く音(=降伏の合図)という意味です。それは、新たなる愛を確信し、高まる心臓の鼓動の意味でもあります。
つまり「シャマード」とは、その愛に降伏した瞬間に一変する世界を表した香りなのです。
フレグランス史上はじめてブラックカラントバッド(カシス)が使用された香りでした(ヒヤシンスがブラックカラントに恋に落ち、完全降伏する香りとも言えます)。
ジャン=ポールは、1974年に4年に一度行われる世界ドレサージュ選手権(世界馬術選手権の前身)に出場しました。彼は3歳のときにはじめて馬に乗り、乗馬をとても愛していました。
そして、調香師になってからも、並行して、ドレサージュ(馬場馬術)の選手として第一線で活躍していました。ちなみに、この頃、オリンピックチームへの参加資格を2回獲得していました。
1979年、ローズは、ピーチに愛を語らせた。
母は、祖父ジャック・ゲランが1937年に生み出した「カシェ・ジョーン(Cachet Jaune)」だけをずっと愛用していました。
私の嗅覚にある最も古い記憶それはその香りと、母が私の4歳の誕生日に作ってくれたストロベリー・パイの香りです。
ジャン=ポール・ゲラン
1979年に、早すぎた天才の香りをジャン=ポールは生み出しました。その香りの名を「ナエマ」と申します。〝ダマセノンにより生まれた革命的なピーチローズの香り〟は、全く市場で認められず、ゲラン一族はその損失を埋めるために、不動産の一部を売らなければならないほどの失敗作になったのでした。
カトリーヌ・ドヌーヴに捧げられたこのオリエンタルローズの香りを嗅いだ瞬間、調香師ソフィア・グロスマンは、この香りに夢中になりました。そして、彼女は、1980年代に「パリ」(1983)「トレゾア」(1990)といったドラマティックなローズを生み出すことになるのでした。
1983年、世界ではじめての庭園の香りを作る。
1775年に女王になったばかりのマリー・アントワネット(1755-1793)が建設させたバカテル庭園からインスパイアされた香り「ジャルダン バガテール=バカテル庭園」を、ジャン=ポールは1983年に調香しました。
(エルメスの庭園の香りよりも20年前に作られた)世界ではじめての庭園の香りであり、無邪気に自然と戯れることが許された時代のマリー・アントワネットの香りです。
一方、この香りは、ゲランにとってひとつの新しい試みの果てに生み出された香りでした。それは、拡大する香水市場に対応するため、ゲランは、史上初めて外部の調香師を招くことを視野に入れ、ジボダンとフィルメニッヒの調香師にも試作品を作らせ、ジャン=ポールと競い合わせたのでした。
1989年『サムサラ(輪廻転生)』降臨。
1970年代に入り、フレグランスの世界は、急激に世界規模のマーケットとなり、顧客層も、今までの特別な層(富裕層、アーティスト、夜の商売の人々)から、一般層へと広がっていくようになりました。特に、1980年代において、一般層にアピールするTVコマーシャルとの連携が強化されるようになったのでした。
一方で、1980年代半ばから、旅客機が一般的になり、人々はエキゾチックな場所や、冒険心が満たされる秘境を求めるようになり、インド、チベット、タイ、カンボジアのような地に対する憧れを持つようになりました。
丁度同じ時期にジャン=ポールにもひとつの新しい感情が芽生えていました。1980年6月に二度目の結婚生活に失敗し、離婚していた彼は、1985年に乗馬の調教師を通じてひとりの未亡人と知り合いました。
彼女の名をデシア・ド・ポー(1942-)と言います。イギリス出身のベルギー人女性の彼女は前年に大富豪の夫を亡くしたばかりでした。ドレサージュの選手でもあるお互いの共通点が、二人を結び付けたのでした。
そして、ジャン=ポールは、ある日、デシアに対してずっと気になっていた質問をしたのでした。「なぜあなたは香りを身に纏わないのですか?」と。
2年間に309回の処方を繰り返し、通常の20倍以上のサンダルウッドを使用した「サムサラ」は、1989年に誕生しました。
香水界のインディ・ジョーンズ
私がフィルメニッヒに在籍していた時代に、香料を現地にまで嗅ぎに行くことはありませんでした。だから、ジャン=ポールが、世界中を駆け巡り、原材料を調査しにいく姿を見て衝撃を受けました。
まるで彼が、インディ・ジョーンズのように見えました。
そして、ゲランの香りが、ただ単に80%の天然香料によって生み出されているのではなく、実際にジャン=ポールが選抜した高い基準をクリアした80%の天然香料により生み出された香りだということを知ったのでした。
ティエリー・ワッサー
1992年にジャン=ポールは、新進気鋭の調香師オリヴィア・ジャコベッティを助手につけ、「プティ ゲラン」を生み出しました。さらにその後にマチルド・ローランを助手にしました。彼女こそのちにカルティエの専属調香師になる人です。
1998年6月11日に、ジャン=ポールは、300ヘクタールある自宅を10人の強盗団に襲撃され、約50億円相当の現金と宝飾品と銀製品を強奪された上に、太ももを撃たれてしまいました。
チェリー ブロッサムとアクア アレゴリア
1999年にジャン=ポールにより調香された「チェリー ブロッサム」は、当時のゲラン日本法人の社長秋元征紘(1944-、ケンタッキーフライドチキンを日本中に広めた男)が主体となり企画し、生み出された〝日本人がはじめて関わったゲランの香り〟です。
さらに1999年にジャン=ポールが創造した「アクア・アレゴリア(水の寓話)」シリーズは、「ゲランが愛する5つの庭」というコンセプトで生み出されました。
マチルド・ローランの若い女性の感性を前面に押し出し、老獪なジャン=ポールのサポートにより生み出された「アクア・アレゴリア」は、一番最初に生み出された作品を今だに超えることが出来ません(「パンプルリューヌ」と「ハーバフレスカ」)。
しかし、2003年に、エルメスが、地中海の庭を発表し、「庭園のフレグランス」シリーズを大成功させたことにより、「庭」という香りのキーワードは、エルメスのフレグランスを象徴するものとして定着してしまいました。
1994年、LVMH(ルイ・ヴィトン・モエ・ヘネシー)の傘下に入ったゲランの中で、2002年までジャン=ポールは専属調香師をつとめ、それ以降は、社内コンサルタント兼調香師となり、2010年に引退しました。
2007年に発売された「ドゥーブル ヴァニーユ」と、2010年に発売された「アルセーヌ ルパン ル ヴォワイユ」が、ジャン=ポールによる最後の傑作の二作品と言われています。