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黒澤明

『乱』1|原田美枝子とワダ・エミが生み出した「楓の方」

黒澤明
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そして、仲代達矢様がそこにいる。

3~5億円かけて建築された山城を燃やし、そこから茫然自失の態で出てくる一文字秀虎のシーンは、ワンカットで撮影された。

80年代の日本映画には、まだ本気になれる環境が残っていました。

些細なことだといって、ひとつ妥協したら、将棋倒しにすべてが壊れてしまう。

黒澤明

城下町のない荒野の中の城が、炎を上げて燃えていくその姿。『地獄の黙示録』を見て黒澤監督は「戦いは残酷だから恐ろしいのではなく、その残酷さが時には美しく見えてしまうから恐ろしいのだ」という感想を残しました。そんな表現が、そのまま反映された映像美が画面を支配します。

そして、燃え盛る城から22段の急な階段を下りて出て行くシーンで、黒澤監督は一文字秀虎を演じる仲代達矢様に「仲代君、このとき秀虎は狂っているから、目は絶対に下を向けないでね。視線はいつも空中に浮かしておいてください」と言い放ち、さらに「このお城の階段はこんな急な角度でしょう。ここでこけないでね。こけたら城が焼け落ちて4億円の損だよ」とプレッシャーをかけます。その時の仲代様の返答が素晴らしいです。「大丈夫です。私の足の親指には目がついてますから」と・・・それはこの作品と共に、日本映画が燃え尽きた瞬間でもありました。

本作において水色の衣装を身にまとう隆大介様が本当に素晴らしいです。かつて公開されていた動画の演出指導を見ても、わかるように、ここまで本気で何かに向き合った末に生み出されたものだからこそ、それは永遠の輝きに満ちるのです。そして、そういった俳優達が着ている衣装だからこそ、衣装にも生命は吹き込まれるのです。

話は戻りますが、燃え盛る炎の中から茫然自失の亡霊のような表情になった仲代様が表れるあのシーンの美しさは、何よりも、白と赤の衣装に生命力が与えられていることゆえの美しさなのです。

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理想の殿上眉美女=楓の方。




楓の方ルック1

立桶紅入の唐織の訪問着。

両親を殺され復讐心に燃える楓の方の衣裳は基本色が緋色です。柄も強いコントラストのものを選び、緋色に浮き上がるデザインとしました。

非常に静かで受け身に見え、遠慮がちに目をそらす楓の方が、一息一息に一文字家滅亡の呪いをこめた悪鬼なのである。・・・『蜘蛛巣城』でマクベス夫人を演じた山田五十鈴や、『羅生門』での京マチ子のような様式にのっとった演技を見せる原田美枝子は、殊勝な表情の下に感情を隠している行いすました妻を演じる好機を得た。・・・この女優の最高の見せ場は、音響技師の勝利の一瞬でもある。太郎に先だたれた楓の方が次郎を誘惑しようと、絹の衣装をシュルシュルいわせながら、膝をついて滑るように床をよこぎっていくのだ。

ポーリン・ケイル

楓の方を演じることが決まり、原田美枝子様は、黒澤監督の傑作『七人の侍』(1954)と『蜘蛛巣城』(1957)を何十回も見ました。そして、『蜘蛛巣城』の山田五十鈴様の演技に魅了されたのでした。浅茅が手についた血を洗い流す狂気をはらんだ場面を演じるために、五十鈴様は自宅で一ヶ月間手を洗う仕草の練習をしたということを聞き、美枝子様は、「どうしたら、山田さんのようになれるんだろう。あの存在感はどこから来るのだろう」と考えに考えたのでした。

ワダ・エミ様の素晴らしい衣装に食われず、共演する素晴らしい役者たちにも食われず、膨大なお金をかけたセットにも食われず、≪楓の方≫を演じあげた美枝子様の素晴らしさ。それは彼女の女優という仕事に対する情熱の深さが黒澤監督の情熱を受け止めることが出来た所以でした。

当初、美枝子様はメイクの相見為幸さんと相談し、楓の方は強い女だからアイラインを強調して描いていました。しかし、そのメイクを見た黒澤監督は「メイクで芝居されたら困るんだよ。すぐに全部落としてくれ。」と怒鳴ったのでした。結局、額にまゆを描いた以外は、ナチュラルな(〝女性の生霊をあらわす。美しい女性だがどこかに凄味がただよう〟能面の泥眼をモデルにした)メイクで楓の方を演じることになったのです。

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「危機の芸術」。一点の静を目指し、物語は進む。

黒澤監督のシナリオに書かれた最後の言葉はただ一言「惨!」でした。

楓の方ルック2

能楽師のような上下の白と赤のコントラスト。伝統的紋様の立涌を織り出した生地に、刺繍で楓を散らした打掛。

「重心を落として体を上下させずにすり足で歩くのです。しかし、それに殺陣の動作を加えると、一歩も脚が出ませんでした。体が動かないんです」と回想する美枝子様。特に、太郎(寺尾聡さん)と楓の方が天守閣で話す場面が大変だったと言います。「この城で育ち・・・」というセリフに、黒澤監督から「悲しみが伝わってこない」と何度もダメだしされます。

「言い始めの音が違う、真綿で首を絞められるような言い方でお願いします」と言う黒沢監督。そして、数日後、皆がフランス料理を食べていたときに、『鍋に入れるとエスカルゴがヒイイイーッと泣く』という話を聞き、そのエスカルゴが体の奥底から死にたくないと叫んでいる悲鳴こそが、私の求めている声なんですよと黒澤監督は美枝子様に説明したのでした。

その瞬間、彼女は「理屈でも音でもなく楓の方の気持ちが分かったのです」と回想しています。

楓の方ルック3

赤と白にすみれの花柄。

アーチェリーと違い弓道は的に当てるということだけを目的にしない。的に矢が当たるというのは結果であって、そこに至る手段、経過が弓道では重視される。矢を放つまでの一連の動作、もっと言えば、日常態度までが大切なのだという。茶道や剣道と同じように技を通して人としての生きる「道」を探るといわれる理由である。

この作品における美枝子様のひとつのハイライト・シーン。それは自分の夫が殺され、義理の弟に全てを奪われる立場へと追い込まれたときの、緊張感と静寂の中での、能のような動きでの退場していくその動きの美しさです。それは一年と言う月日を、楓の方と共に過ごした一人の女優の美しき背中のシルエットなのでした。