ミア・ファロー

ミア・ファロー9 『華麗なるギャツビー』3(2ページ)

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • follow us in feedly

作品名:華麗なるギャツビー The Great Gatsby (1974)
監督:ジャック・クレイトン
衣装:セオニ・V・アルドリッジ
出演者:ロバート・レッドフォード/ミア・ファロー/ロイス・チャイルズ/サム・ウォーターストン/ブルース・ダーン/カレン・ブラック

デイジー・ブキャナンのモデルになった二人

「アラバマ・ジョージアの2州に並ぶ者無き美女」とフィッツジェラルド自身が描いた妻のゼルダ。

パリのスコット&ゼルダ・フィッツジェラルド夫妻と娘スコッティ、1925年。

本作の原作は、アメリカを代表する作家F・スコット・フィッツジェラルドが1925年4月に出版した小説「グレート・ギャツビー」です。ミア・ファローが演じたデイジー・ブキャナンには二人のモデルがいました。

一人は、スコットの妻ゼルダ・セイヤー(1900-1948)です。「アメリカで最初のフラッパー」と呼ばれ、「狂乱の20年代の申し子」とまで呼ばれた女性です。

スコットは、1920年に処女作「楽園のこちら側」を出版し、一躍人気作家となり、二人は結婚しました。そして、二人は、「華麗なるギャツビー」のデイジーのように、「ジャズ・エイジ」のニューヨークで、若さと成功を体現する象徴として、パーティに明け暮れました。

時は経ち、1924年に、二人はパリに移り、スコットは、「グレート・ギャツビー」の執筆を開始しました。この頃から、スコットはアルコール中毒に苦しみ、ゼルダは統合失調症に蝕まれていきました。

1929年の世界大恐慌を境に、「狂乱の20年代」を生きた二人の運命も暗転していきます。1932年にゼルダは、処女小説「ワルツは私と」と絵画を発表するも、世間からの冷たい反応を前に打ちひしがれます。そして、ゼルダは1930年代には、ほぼ年中精神病院に入院するようになります。一方、スコットは、1937年にハリウッドで脚本家になりました。自分が流行作家から、しがない脚本家に落ちぶれた理由は、ゼルダのせいだと考えていました。そして、1940年に失意の中、心臓発作で急死します。

1948年にゼルダも、世捨て人同然の状態で入院していた精神病院が火事になり、電気ショック療法を待つ病室に監禁された状態で、逃げられずに焼死しました(ちなみにゼルダの名前は後の任天堂の人気ゲーム「ゼルダの伝説」のゼルダ姫として拝借されています)。

もう一人のデイジー。

デイジー・ブキャナンのもう一人のモデルは、ジネヴラ・キング(1898-1980)です。彼女こそがスコット・フィッツジェラルドの初恋の女性でした。1915年1月に、スコットが19歳、彼女が16歳の時にミネソタで初めて出会いました。彼女はシカゴの資産家の娘でした。そして、文通を通して、17年1月まで交流は続きました。

ジネヴラが再婚した1937年に、ハリウッドにスコットを訪ねたときに、「デイジーは、私をモデルにして描いたの?」と聞いたときに、「どのビッチが自分だと思うんだい?」とスコットは返しました。この時期にはもう彼はアルコールに完全に蝕まれていたのです。

ミア・ファローが1920年代のファッション・アイコンになった瞬間。

ギャツビー邸で行われたパーティに出席する三人。

シルバーに包まれたミア・ファローがスクリーンに現れた瞬間。彼女は20年代の〝永遠のアイコン〟となった。

ビッグ・パパ・パンプが継承したキャップ型のヘッドドレス。

そして、20年代といえば、携帯用ビッグファン。持ち手が鼈甲です。

狂乱の20年代とは、20世紀のクレオパトラを生み出す時代でもあった。

まさに歩くアール・デコ。

ミア・ファローとロバート・レッドフォード。

デイジー・ブキャナン・ルック9 アールデコ・スタイル
  • オストリッチ(ダチョウ)・フェザーが巻きついたシルバースパンコール・コクーンコート、ピンクとブルーの水玉柄、ポール・ポワレ的なシルエット
  • グラマラスなドロップウエスト・シルバードレス、ビーズに覆われている
  • 宝石を散りばめたヘッドピース
  • ホワイトフェザーに包まれた鼈甲のうちわ
  • 35万ドルの一連ロングのパールネックレス、カルティエ
  • 腕がけミニバッグ
  • 両腕にゴージャスなカルティエのブレスレット
  • カルティエのイヤリングとネックレス

この素晴らしい衣装をはじめとする女性陣の主要な衣装を制作したのは、バーバラ・マテル(1929-2001)です。彼女は、ブロードウェイのスターのみならず、マイケル・ジャクソンミック・ジャガーの衣装や、1993年にビル・クリントン大統領の就任舞踏会におけるヒラリー・クリントンのボール・ガウンも制作しました。グレン・クローズ主演の『101』のクルエラ・デ・ヴィルの衣装も衝撃的でした。

1929年にイギリスで生まれたバーバラは、ロイヤル・シェークスピア・カンパニーやオールド・ヴィック・シアター、ランベール・バレエ団の衣装製作部門等で経験を積みました。そして、バレエのチュチュ制作のエキスパートとなり、マーゴ・フォンテインの衣装も手がけるようになりました。彼女がクリスチャン・ディオールから贈られたブラックのニュールック・ドレスが大きすぎたので、その手直しをしたり、プライベートでも、多くの著名人から信用を勝ち取りました。

60年代からは、渡米し、ブロードウェイの衣装を手がけました。ハリウッド進出のきっかけは、1968年の『ファニー・ガール』におけるバーブラ・ストライサンドの衣装を、衣装デザイナー・アイリーン・シャラフの要求通り作り上げたことによってでした。特に、『インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説』(1984)のケイト・キャプショー(1953-)の30年代的なレッドスパンコールドレスは素晴らしいものでした。

フラッパーについて

1920年代にヴォーグに掲載されたフラッパーモデル・フォト。

NYのビルの屋上の欄干で踊るフラッパーたち、1920年代。

「狂乱の20年代」に大流行したファッションをフラッパー・スタイルと呼びます。このファッションの特徴は、

  1. 帽子は、キャスケットやクローシュ
  2. ヘアスタイルは、フィンガー・ウェイブを多用したボブカット
  3. メイクは、舞台女優のような真っ赤な唇と、コールで暗く縁取りされた目元、そして、頬紅
  4. 胸の膨らみも、腰のくびれも強調しない「ギャルソン」的なストレートドレス。膝丈のスカート丈
  5. 脚には、シルクかレーヨンのガーターストッキング
  6. 5、6cmのハイヒール
  7. 香水
  8. ココ・シャネルが日焼けした肌で世間の注目を集めてからは、小麦肌も流行

といったものでした。彼女たちは、ジャズ音楽のリズムに合わせたダンス=チャールストンを、スカートをヒラヒラさせて踊り、飲酒・喫煙・ドライブ・セックスを男性のように自由に楽しみました。

元々、フラッパーとは、1890年代には、英米において年若い売春婦を意味するスラングでした。それが、1920年、オリーヴ・トーマスが主演した映画『ザ・フラッパー』により浸透し(彼女は同年パリのホテル・リッツで塩化水銀を誤って摂取し急死)、彼女以降、クララ・ボウ、ルイーズ・ブルックス、ジョーン・クロフォードらが、フラッパーというイメージを体現した女優として大きな人気を誇るようになります。



ページ:

1

2

カテゴリー一覧

ファッションアイコン(女優編)

PAGE TOP