「私たちは、さよならを言うために出会ったのね」
モンゴメリー・クリフトに初めて会ったのは撮影の始まる2日前、それまでの映画を見て私は、熱烈なファンだったの。すっかり上がってしまいました。忘れがたい感激は、ラブシーンとラスト近く獄舎に会いに行くシーンで彼の真剣な顔を見ただけで、私は演技などしようとは思わなくてもひとりでに涙が出てしまったほどです。ある意味ではモンティと仕事をするのは決闘をするような真剣味に迫られます。しかし、一度仕事を離れれば、教養の深い。とても話せる人でした。
エリザベス・テイラー。1994年
この時期、リズ・テイラーは、モンティに演技指導されるようになり、彼女も喜んで、何時間も自分たちが演じるシーンを二人で練習するようになりました。モンティはリズの演技についてこまごまとメモをとり、あとでそのメモを見ながら彼女と話し合っていたのです。
彼が捕まったことを知り、自分の部屋に戻り失神するシーン。その演劇的な滅びの美学。リズ・テイラーはこの映画をきっかけに、パペット的な役柄ではなく、女優としての力量が求められる役柄を求めるようになりました。 そして、『ジャイアンツ』(1956年)『愛情の花咲く樹』(1957年)『熱いトタン屋根の猫』(1958年)『去年の夏 突然に』(1959年 )『バターフィールド8』(1960年、アカデミー賞主演女優賞)『ヴァージニア・ウルフなんかこわくない』(1966年、アカデミー賞主演女優賞)などの代表作を残すことになります。
エリザベス・テイラーの恐ろしさは、1940年代から50年代の美少女時代に飽き足らず、更に50年代以降から始まる、コンラッド・ヒルトンJr.をはじめとする大富豪との結婚・離婚の繰り返しに飽き足らず、女優としてのキャリアを築き上げた所にありました。特に2回目のアカデミー賞を受賞することはすごく難しいのですが、彼女はそれを僅か6年後にやってのけたのです。
日本では極めて過小評価されているエリザベス・テイラーという人。彼女の生き様は、グレース・ケリーやオードリー・ヘプバーンとはまた違った逞しさに溢れていました。その生き様が、1980年代以後のマイケル・ジャクソンとの友情を育むきっかけになったのでしょう。1980年代以降の「キング・オブ・ポップ」(リズ・テイラーが命名した)と呼ばれたマイケル自身が、自分の精神的父母と呼んだのが、マーロン・ブランドとリズ・テイラーだったのです。天才は天才を知るのです。
エリザベス・テイラー・ルック7 喪服スタイル
- 黒の喪服。白のスタンダードカラー。七分袖。パフスリーブ
- 黒のクロッシェ
当初ラストシーンは、電気椅子での処刑で断末魔をあげるジョージ(モンゴメリー・クリフト)のシーンが予定されていました。しかし、そのシーンの撮影をモンティはきっぱり断りました。「それはリアルではない」と、電気椅子に向かって歩いていくシーンで終わることになりました。
そして、彼は、実際に刑務所の死刑囚用独房で一夜を過ごし、作中の役柄に入り込んでいきました。彼こそが、1947年にリー・ストラスバーグがエリア・カザンらと設立したアクターズ・スタジオの「メソッド演技法」を、はじめて映画に持ち込んだ俳優だったのです。
ロバート・デ・ニーロを発掘した天使
この作品に出演するまでブロンドのグラマー女優だったシェリー・ウィンタース(1920-2006)は、30才になる前に自分のキャリアアップを考えました。そして、アリス役を絶対に勝ち取りたいと考えました。そのために元祖デ・ニーロ・アプローチを行うことにしました。
髪をブラウンに染め、工場を見学して廻り、工場で働く娘のファッションをリサーチし、それらしい服を見繕い、監督のジョージ・スティーブンスの面接に行きました。その時、スティーブンスは、コーナーの角に座っている女性がシェリー・ウィンタースであることに気付かなかったと言います。こうして彼女は、見事に演技派女優に転進し、『アンネの日記』(1959年)と『いつか見た青い空』(1965年)で二回アカデミー助演女優賞を獲得することになります。
そうなのです。この作品は、二人の女優にとって転機になった作品だったのです。シェリーは、自伝の中で、アカデミー賞を獲った作品を選ばずに、この作品を一番好きな映画として上げています。1960年代末シェリーは、サリー・カークランド(彼女の後見人)に一人の演劇青年を紹介されます。その青年の名をロバート・デ・ニーロと言いました。
陽のあたる場所とは?
世の女性たちが、ファッション雑誌を捨て、インスタやブログを見るようになった理由の一つに、あまりにもファッション雑誌は、最新モードに身を固めるソーシャライト達(親や配偶者の金で生きている穀潰し)や、何をしているのかよく分からないファッションピープル及び芸能人たちのファッションが羅列されているからです。「さあ、あなたも陽のあたる場所に出ましょう!彼女たちのファッションを参考にして」と言った所で、その膨大なスナップ写真から生み出されるものは、疲労感だけなのです。
ファッションの本質を見失ったファッション雑誌は滅び始めるということが、事実であるならば、ファッションの歴史を深く掘り下げずに、成金の選ぶ、分かりやすいキャッチーなアイテムばかりを羅列する「陽のあたるファッション」雑誌スタイルよりも、一般人によるプチプライスの生活着をコーデするささやかな喜びの方が、極めて自分のスケールで、楽しめるのです。
2016年現在、人間の悲しい習性なのですが、飽和状態という言葉が、プチプラコーデとソーシャライト・ファッションへとダブル・パンチに圧し掛かっています。もうノームコアもミニマルもいいんじゃないか?もっと個性的な自分探しを楽しみたいんだ!という感覚です。そうなのです。今人々は、歴史の中から自分に合うものを見つけ出し、楽しもうという【陽をあてるファッション】路線に突き進もうとしているのです。だからこそ、50年代のファッション・アイコンが若い女性の間でも注目されているのです。