フランシス・クルジャン
Francis Kurkdjian 1969年5月14日、フランス・パリ生まれ。アルメニア人の両親の間にパリで生まれたクルジャンは、1990年にベルサイユにある香料国際高等学院イジプカに入学し、1993年、クエストに入社。弱冠25歳にしてジャン=ポール・ゴルチエの初めてのメンズ・フレグランス「ル マル」を手がけます。
2001年、その先見の明をもって、香水の民主化という一般的な傾向に逆らって、オーダーメイドの香水アトリエを設立し、同年、世界の優れた調香師に与えられるフランソワ・コティ賞を受賞しました。2005年には、マリー・アントワネットが愛した香りを再現する。
そして、2008年に芸術文化勲章シュヴァリエを叙勲しました。2009年9月7日に、自身のフレグランス・メゾン「メゾン・フランシス・クルジャン」をパリのアルジェ通りの5番地にオープンさせ、今に至ります。
人間性を失っていく世界において、香水は私たちの人間性を守ってくれる存在です。時には、香りの中に身を置くことは1,000語の言葉に値するのです。
クルジャンのモットー
代表作
ル マル(ジャン=ポール・ゴルティエ)
アクア ユニヴェルサリス(メゾン・フランシス・クルジャン)
バカラ ルージュ540(メゾン・フランシス・クルジャン)
グリーンティー(エリザベス・アーデン)
ローズ バルバル(ゲラン)
オー ノワール(クリスチャン・ディオール)
マイ バーバリー(バーバリー)
エリーサーブ ル パルファム(エリーサーブ)
ケンゾー ワールド(KENZO)
ナルシソ ロドリゲス フォーハー(ナルシソ・ロドリゲス)
フランシス・クルジャンの全ての香水一覧
メゾン・フランシス・クルジャンのすべて
調香界のプリンス

若き日のフランシス・クルジャン。
ただひとつのコードやひとつのスタイルを持ちたくありません。いつも自分の領域を変えながら全体的な嗅覚のパレットを発見し続けたいのです。
フランシス・クルジャン(以下すべての引用は彼のお言葉です)
ムエットの上の香りは、ハンガーにかかる衣服のようなものです。命を与えるためには私たちの身体が必要なのです。
2009年に、自身のフレグランス・メゾン「メゾン・フランシス・クルジャン」をパリにオープンさせ、絶好調なフランシス・クルジャン。日本においては、ブルーベル・ジャパンが各都市の百貨店に展開するラトリエ・デ・パルファムによるマーケティングの成果もあり、知名度を高めております。
そんな状況の中、2017年3月、メゾン・フランシス・クルジャンは、ついにLVMH(モエ・ヘネシー・ルイ・ヴィトン)とパートナーシップを組むことになりました。
クルジャン時代の到来!!

©Maison Francis Kurkdjian

バーバリーのトレンチコートを着ているクルジャン

クルジャンのインスピレーションの源と言えるリンカーン・センターで撮影された写真。

フランシス・クルジャン
姉はボトルに興味を持ち、私は中身に興味を持ちました。(13歳のとき、姉が集める香水に興味をもったのがきっかけ)
14歳の時、調香は非常に神秘的な芸術形式で、香水がどのように作られているのかを知ることは稀でした。そんな中、ある雑誌で5人の調香師(ジャック・ポルジュ、ジャン・ケルレオ、フランソワーズ・キャロン、ジャン=ルイ・シュザック、アニック・グタール)についての記事を見つけました。それを読んで、羨望の念を抱きました。
創造性と厳しさが融合したこの仕事は、まさに私にぴったりだと感じたからです。私にとって、まさに自分がやりたいこと、そして元々夢見ていたバレエよりも、ずっとやりたいことを体現していたのです。
1969年5月14日、フランシス・クルジャンは、アルメニア人の両親の間にパリで生まれました。〝クルジャン〟という苗字は、アルメニア語で毛皮商人を意味します。両親のルーツは、メソポタミア地方で代々毛皮商を営んでおり、1914年から23年にかけてのオスマン帝国によるアルメニア人虐殺から逃れてきた亡命者でした(彼はアルメニア語も話せるが、自分自身は100%「フランス人である」と断言している)。正確には1922年にフランスに移住しました。
母方の祖父は仕立て屋で、コート、スーツ、タキシードのデザインをしていました。さらに叔母と母の親友は、クリスチャン・ディオールと共にパタンナーとして働いていました。父方の祖父は毛皮商であり、ファッションデザイナーでした。
少年時代から青年時代にかけてピアノとバレエを学び、ラグビーと陸上競技もやっていました。特にバレエのレッスンに夢中になり、5歳からはじめ、打ち込んでいました(はじめて飛行機に乗ったのは12歳の時で、2回目は24歳の時だったという)。
1983年に、パリ・オペラ座のダンス学校の試験にも落ち、1985年、14歳の時ピアニストかバレエダンサーになる夢を諦め、既に興味のあった調香師になることを決めました。
1990年にベルサイユにある香料国際高等学院イジプカに入学し、1993年、クエスト・インターナショナルに入社し、1994年にシャンタル・ルースとの出会いにより、弱冠25歳にしてジャン=ポール・ゴルチエの初めてのメンズ・フレグランス「ル マル」を手がけます。
1995年10月に「ル マル」が発売される数か月前にニューヨーク・オフィスに勤務するようになり、99年パリに戻ります。
そして2001年、その先見の明をもって、香水の民主化という一般的な傾向に逆らって、オーダーメイドの香水アトリエを、ほとんど満足のいく資金がない状態から設立し、同年、世界の優れた調香師に与えられるフランソワ・コティ賞を受賞しました。
私がイジプカの学生だったころ、キャロンを創立したエルネスト・ダルトロフや、フランソワ・コティといった自分自身のフレグランス・メゾンを作ったパイオニアに憧れました。そして、香水を学ぶとき、私は常にピカソのあの名言を念頭においていました。「コピーからはじめよう!とにかくコピーするんだ!そして、ある日、それはコピーではなくなり、傑作が生み出されることになるのだ!」。
他人を尾行したり、高級ホテルでメイド勤務をして、宿泊客の持ち物を物色し、何をしているのかを連想したり、自分自身を探偵に尾行させたりして物語を紡ぐ鬼才ソフィ・カルとのコラボによって、2003年以降、クルジャンは、世界的なパティシエ、クリストフ・ミシャラクとのホテル・プラザ・アテネのデザートを一緒にデザインしたりなど、アーティストとのコラボ香水を積極的に手がけるようになります。

©Maison Francis Kurkdjian
2004年、後にメゾンを共にオープンすることになるパートナーであるマーク・チャヤと出会う。2005年にマリー・アントワネットが愛した香りを再現し話題になります。そして、2006年に、フランスの「アルメニアン・イヤー」に、ベンゾインを使用したフランスの伝統的な紙のお香パピエダルメニイを調香しました。
2008年、レジオンドヌール勲章を授与される。そして、2009年、パリのヴァンドーム広場の近くにメゾン・フランシス・クルジャンをオープンしました。
クルジャンは生粋のパリジャンであり、ビジネスランチをとる必要がない場合は、ルイ15世の時代(1730年)から続くパリ最古のパティスリー『Stohrer(ストレー)』でサンドウィッチを買い、オフィスで食べるのを好みます。
フランシス・クルジャン語る。

©Parfums Christian Dior

©Parfums Christian Dior
私は「ル マル」を調香した後、調香師たちは香水は芸術だと言いながらも、ブランドのために作る商業作品以外では、専門職の限界を押し広げるほどの努力はしていないことに気づきました。香水メーカー間では、賞を獲得したり、大手香水メーカーの主要リストに名を連ねたりするために熾烈な競争が繰り広げられているにもかかわらず、彼らはたいてい、居心地の良い繭の中に閉じこもっているように感じました。
ですから、すぐに何かが欠けていると感じました。幼い頃からピアノとバレエを習っていて、アートとのコラボレーションや、アートが時にお金と切り離されることもあるという知識はある程度持っていました。しかも、私はクチュールの出身でした。私の家族には、ファッションや仕立て屋などで働いていた親戚がたくさんいます。
私たちを「ノーズ」と呼んだり、「ジュース」を作っていると言ったりする人たちにもうんざりしていました。私はこれらの表現を決して使いません。それはひどく、私たちの仕事に対する敬意を欠いた行為だと感じたからです。
「ノーズ」という言葉は私にとっては非常に軽蔑的な表現であり、調香師としての私たちの現実とはかけ離れています。
他のアーティストと同じように、私たちがまず脳を使って仕事をしているという事実を、全く反映していません。ピアニストや作家を「手」と呼ぶことも、ダンサーを「体」「足」「腕」と呼ぶこともしません。それに「ジュース」なんてひどい。何かまずいものを作っているような気がしてなりません。
そこでまず、個人のお客様向けにオーダーメイドのフレグランスを作るために、自分のアトリエを開くことにしました。当時30歳で、これが私にとって初めての起業経験でした。それまで取り組んでいた商業的なプロジェクトとは違い、時間もお金も問題ではなくなったため、自分の限界に挑戦することができました。ボトル、ケース、ロゴも自分で決め、最初から最後まで自分のプロジェクトに取り組むことができました。
私の調香スタイルは、スタイルがないところが私のスタイルです。制限のない調香が私のスタイルなのです。
フランシス・クルジャンの特異性は、他の調香師と違い、彼自身は、プランを全く立てないところにあります。それはパートナーのマーク・チャヤの仕事なのですが、次作の香水で何をするといったようなことを一切決めずに、インスピレーションで次に作るべき香りを決めているところにクルジャンの香りの恐ろしさがあります。
ちなみに香りを調香する際には、音楽が流れていることを好まず、嗅覚に集中するために、静寂、あまり明るくない環境、そして温度が調整された部屋が必要とのことです。
特にメゾン・フランシス・クルジャンにおいては、世間ではこういう香りが主流だから、次にこの香りを売り出そうというようなビジネス的な戦略を全く放棄し、天才的な調香師が、世に広めたいと考える〝香りの魔術〟を手に取ることが出来る奇跡に私たちは遭遇できるわけなのです。

©Maison Francis Kurkdjian
私は今まで、誰かに売りたいと考えて香りを調香したことがありません。そして、そういうセンスも私にはないのです。
クルジャン曰く「香水は、簡単に嘘でごまかせる代物です。だからこそ、私は、この世界に一切の嘘を散りばめないようにしようと考えています」。その言葉の通り、クルジャンは、厳選した天然香料の使用を好みます。
「パフュームは決して芸術にはなりえない」
香水のトレンドは、ファッションのトレンドとは大きく異なります。香水の世界では、美食の世界でトレンドが生まれる方法に近いと言えます。これは人間の嗅覚が新しい味や匂いに適応して理解するのに、より多くの時間を必要とするためです。
食べ物に例えると、私が子供の頃は日本料理が今ほど人気がなかったことを思い出します。そして今日では、高級寿司から寿司のデリバリーまでどこにでもあるようになりました。ちょうどピザと同じです。
香水の分野で新しいトレンドが生まれるまでの期間は、美食と同じくらい長く、ファッションよりもはるかに長いです。まずトレンドが確立するには大衆の趣味や嗜好が必要ですが、私たちが知っているように、それを変えるのは非常に困難です。
偉大なるルカ・トゥリンが言及するように、「天然香料ともとの植物との関係は、言ってみればオレンジ・ジャムとオレンジ、あるいはヒバロ族の干し首と生身の敵との関係に相当する」という喩えのように「天然原料が本物のレプリカとしてできが良くないからこそ香料が存在するとも言える。もしローズオイルの匂いがバラの匂いと同じだったら、調香師はうなだれて降参するしかない。しかし、実際は違う。調香師の課題とは、そのように切り刻まれて加熱され、変わり果ててしまった自然物の破片を混ぜ合わせ、まるで遺体修復師のように、ふたたび生命の輝きをあたえることなのだ」。
つまりクルジャンは、複雑な天然香料と向き合うことによって、機械的な合成香料(特にムスク、クルジャンは別名ムスクの魔術師とも呼ばれています)に、複雑な豊かな香りを蘇らせるのです。
パフュームは芸術ではない。なぜならば、ボードレールやヴェルレーヌ、ピカソのように、パフュームは悪徳を表現できず、死や血さえも表現してはいけないからだ。
クルジャンは言い切ります。「これだけは言っておきます。どんなに私が努力しようとも、パフュームは決して芸術にはなりえないのです」と。しかし、芸術家とは得てして自分のことを芸術家とは呼ばないものであり、このクルジャンの姿勢こそが、フランシス・クルジャンをフランシス・クルジャンたらしめている所以なのです。
どのアーティストも作品を売って商業的に成功したいと思っています。生涯でたった一枚の絵しか売れなかったゴッホよりもバンクシーの方が成功しているように見えるが、二人とも芸術家であり、それぞれが自分の時代を反映していると言えるだろう。
香水は絵画ではないので、心地よく、喜びをもたらすものでなければなりません。しかし絵画はそうであってはなりません。感情を呼び起こすものでなければなりません。そして香水はポジティブな感情と欲求だけを生み出すべきです。
「ゴルチエとは、最初から最後の関係まで、喧嘩だけでした。でもそれが私にエネルギーを与えたのです」というクルジャンは、ルイ・ヴィトンやディオール、ゲラン、シャネルなどのラグジュアリー・ブランドの専属調香師になることについてこう言及しています。
「私が、ディオールとの関係において失敗作を作ったから言うのではありません。ただ私にとって大きなラグジュアリー・ブランドの専属調香師になるということは、リタイヤすることも同然なのです。私は香水の創造に対して完全に自由にありたいです。」
フランシス・クルジャンの魅力。それはディオールにおいての作品で失敗を経験しながらも、倒れても起き上がった所にあるのです。だからこそ、この文章を書く、私は、クルジャンのディオールにおける失敗作の香りを何よりも嗅ぎたくてしょうがないのです。
最終的に、2021年10月より、ディオールの二代目調香師(ディオール パフューム クリエイション ディレクター)に就任することになるのですが、その数年前に、自分自身で独自調査を行い1カ月かけて、最も有名な香水からブティックまで、ミステリーショッパーなども行い、主要な見どころをまとめた12ページのガイドを作成し、ディオールの社長にその小冊子を提出しました。
それから3年以上が経ったある日、その小冊子に書いていた、自分が雇われたら変えたいと思うすべてのことのリストを実践する機会を得たのでした。
最後にクルジャンが座右の銘としてるこの言葉と共に、この記事の締めくくり致します。
「未来はいくつか名前を持っている。 弱者にとっては『不可能』。 臆病者にとっては『未知』。 考え深く勇気のある者にとっては『理想を実現する機会』だ」ヴィクトル・ユーゴー