芸術を生み出す姿勢で映画を創る
しかしこのテーマに取り組むためには、自分自身が成熟するための時間が必要だった。この作品は僕の生涯の夢なんだ。トーマス・マンの原作には学生時代から夢中だったよ。映画監督になる前は劇化かオペラ化したいと考えていたんだ。 ― ルキノ・ヴィスコンティ
当初、製作会社より、美少年ではなく美少女にしてはどうかという提案もあったが、ヴィスコンティは、それを拒否した。ベニスのホテルを改装し、衣装も含め、1910年代を再現しました(アッシェンバッハのスーツケースは全てルイ・ヴィトンに特別発注したもの)。ヴィスコンティの妥協しない姿勢に対して、制作費を捻出するために、俳優たちも全員普段のギャラの半分以下で出演を快諾しました。皆、伯爵の生み出す芸術に参加したいという願いを持っていたのです。
更に、製作準備が進む1970年が明けた真冬に、ヴィスコンティは、ブタペスト(ハンガリー)、ストックホルム(スウェーデン)、ヘルシンキ(フィンランド)、ワルシャワ(ポーランド)へ、タジオのオーディションの旅に出発します。「イタリアには、金髪で碧眼の美少年はいない」ということからです。最初、ビョルン・アンドレセンに会った時、ヴィスコンティは、15歳と言う年齢(彼は11歳から12歳の美少年を求めていた)と178㎝の高身長に躊躇します。
ビョルンの映画撮影中のオフショットを見ていて感じるのは、撮影時、すでに少年ではなく青年として男らしい容姿を持っているということです。しかし、ヴィスコンティが、そんな彼を幼く撮るのではなく、女性的な魅力をとことんまで引き出すことによって、アンドロギュヌスとして、同性さえも夢中にしてしまう一人の美の化身を映像の中に産み落とすことに成功したのです。
ビョルンが自分の作品を見て、良くも悪くも一番驚いたと言われています。彼は間違いなく知っていたのです。ヴィスコンティによって、創り出されたイメージを役者として超えることは到底不可能であると・・・。
それでも映画は、間違いなく芸術である
しかし、映画は決して芸術ではないということも言っておかなければいけない。あくまで職人仕事で、ときとして第一級のものもあるが、得てして二流、三流のほうが多い。私が愛してやまない映画、チャップリンの『殺人狂時代』。これは映画の天才の作品なのだが、にもかかわらず、技術面からくる制約は避け難い。何ひとつ制約するものがないのが芸術だ。 ― ルキノ・ヴィスコンティ
1976年3月17日、ヴィスコンティはブラームスの交響曲第二番を繰り返し聞いていた。やがて、妹のウベルタのほうを見ていった。「もう充分だ」そして、死んだ。