シンディ・ローパー略歴
- 1953年6月22日 ニューヨーク市ブルックリンで生まれる。5歳の時、両親が離婚する。
- 1970年 高校を退学し、愛犬スパークルと家出し、様々な職業を経験する。
- 1978年 ブルー・エンジェルというグループを結成し、80年にアルバム・デビューするも売れず、解散。自己破産する。
- 1983年 一枚目のソロ・デビュー・アルバム『シーズ・ソー・アンユージュアル』を発表し、全米で600万枚、全世界で1600万枚を売り上げる。ファースト・シングル「ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファン」が全米No.2ヒットになる。
デビューアルバム『シーズ・ソー・アンユージュアル』(1983年10月リリース)
「すごく暗い場所で最高に明るい光を放つのよ」
ウールワースのような安物百貨店(シンディ・ローパーが80年代にバイトしていたマクローリーズ)に入ってくるたびに夢のように美しく見えた女性もいた。初めて彼女を見た日は悪天候だった。・・・そこに、プラチナ色の髪をうしろで高いフレンチノットにまとめ、前をカールさせた背の高い女性が入って来た。
ピンクと赤の花柄のスカーフがその前髪のカールと彼女の顔を縁取っていた。明るいコバルトブルーのレインコートを着て、とても可愛らしい明るいピンクの口紅もつけていた。すごく60年代ぽかった。私が「わあ、素敵!」と言うと、彼女は「いつだってすごく暗い日には最高に明るい色を着るのよ」と応じた。
長い間彼女の言ったことが頭から離れなかった。数年後、コニー・アイランドの古い蝋人形館の前に立って、『シーズ・ソー・アンユージュアル』のアルバム・ジャケットの写真を撮ったとき、そのことがずっと頭の中にあった。小便臭い路地で、赤い服を着て、裸足で踊っていたとき、あの女の人のことを考えていた。背景になっている明るい黄色のドアと明るい青色のレンガの壁は、赤に対抗するように光を放つとわかっていた。「すごく暗い場所で最高に明るい光を放つのよ」と私は思った。
シンディ・ローパー自伝より
シンディ・ローパーのデビュー・アルバム『シーズ・ソー・アンユージュアル』は、全米で600万枚、全世界で1600万枚を売り上げました。そして、彼女はひとつのアルバムから全米トップ5に入るシングルを4つ生み出した史上最初の女性シンガーとなりました。
アルバムのパッケージ撮影はニューヨーク・コニーアイランドのボードウォークにて1983年夏に、アニー・リーボヴィッツ(1949-)によって行われました。全ての衣装はシンディが以前一年間働いていたヴィンテージ・ショップ「スクリーミング・ミミ」から選び出しました。その躍動感あふれるビジュアルと、斬新なファッション・センスは、当時の女性の心を鷲掴みにしました。そして、第27回グラミー賞で、本作が最優秀アルバム・パッケージ賞を受賞しました。
私は花束と靴と傘を地面に置いた。スタジオから未完成のテープを持って来たから、アニーが撮影している間音楽をかけて踊ることができた。音楽のサウンドとビジュアルに結婚して欲しかった。-アニーにどんな写真を撮ってほしいか理解してもらうにはそういう表現しかなかった。
シンディ・ローパー
表ジャケットのために南米の写真の女の子みたいに花束がほしいと思ったし、女は世界の奴隷だってことを強調するために足首とお尻のところに鎖がほしかった。
アニーは「シンディ、ドレスをまくり上げて!」と煽り続けていたものの、私は「イヤよ、そんなことしたくない。強烈なダンス・アートみたいなことをやりたいんだから」と感じていた。・・・実はアニーとヌード写真もやったの。・・・一緒に素晴らしいアートを作ろうと思っていて、実際うまくいったんだけど、私はポップ・スターだからそういう写真を出回らせるわけにはいかなかった。
シンディ・ローパー・スタイル4 レッド・プロム・ドレス
- シルキーなヴィンテージ・レッド・プロム・ドレス
- 両耳と、首と、両手首、右の足首に大量のアクセサリー
- 腰にチェーンベルト
- 黒の網タイツ
- 赤のハイヒールパンプス
私はジャケット撮影のために靴を白色顔料で塗っておいた。最初にコニー・アイランドに行って以来ずっと、パラシュート・ジャンプを背景にして私の足が宙に浮いているっていうのを夢に見ていたのよね。コニー・アイランドの出身なら、あるいはニューヨークの出身なら、その光景がすぐに思い浮かぶはず。私にとってそれはブルックリンのエッフェル塔のようなもの。色を塗っている時間がなかったから、大好きな画家で、学校でも勉強したフィンセント・ファン・ゴッホの画集を見つけてきた。彼の作品の色や大胆な筆遣いに魅かれたの。それと、靴底にも魅了されていた。それを見ればその人がどんな人生を歩んできたかわかるから。
だから、ゴッホの作品というアートを自分の靴底に貼り付けようと、絵画「星月夜」を靴の輪郭に合わせて切り取った。
シンディ・ローパー
アルバムのすべてが私の人生から生まれてきたーアルバム・ジャケットまでね。私は友達のケン・ウォールが持っている南米の写真集で見た一枚の写真にインスピレーションをもらっていた。・・・彼女はカラフルなスカートに花束を持ち、太陽が実にうまい影を作っていた。ジャケット写真は私とビーチ・パラソルで決まりだと思ったんだけど、コニー・アイランドに行ったのはアート・ディレクターのアイデアだった。私たちは(迷った末に)そこに辿り着くと歩き回って、私がまるで南米みたいなほんとに素晴らしい色彩の通りを見つけた。そこは古い蝋人形館の正面で真昼の太陽があり、まさにもくろみ通りだった。私たちはついにその場所を見つけ出したのだ。
シンディ・ローパー
ジェーン・ラッセルがオフショルダーのブラウスに当時流行ったエスパドリーユ、店(スクリーミング・ミミ)に入荷していたこの赤いスカートによく似た真緑のスカートといういでたちだった。彼女の衣装にはまさに南米の雰囲気があった。店を所有しているローラ・ウィリスは天才そのもので、装いをまとめるのを手伝ってくれた。・・・ジャケット撮影のためのメークアップは誰にもさせなかったー私が自分でやったのよ。ローラがスタイリングをやって、撮影はアニー・リーボヴィッツにやってもらった。
シンディ・ローパー
30歳にしてスーパースターになったシンディ
「ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファン」 1983年8月リリース。全米4位、全英2位
バラードを唄えと言うレコード会社の人間に私が逆らい続けていた理由は、音楽業界で仕事をすればするほど最初のヒットがそれからのキャリアを決定するとわかってきたからで、バラード歌手というカテゴリーに入れられないよう最初のヒットはアップテンポなものにしたいと思っていた。宗旨替えする人はみんな失敗するということに気づいていたので、そのためにも戦った。クールなパフォーマーはみんな、偉大な人たちはみんなーザ・クラッシュ、エルヴィス・コステロ、プリテンダーズーレコード会社に自分たちを作り替えさせなかった。レコード会社に作り替えさせられてしまうアーティストの寿命なんてメチャクチャ短い。
シンディ・ローパー
ビデオには私に影響を与えたいろんなものがこまごまとたくさん入っていた。電話を逆さまに取り上げて、それからひっくり返すっていうシーンは、どこかでデヴィッド・ボウイが受話器を逆さまに取り上げて、それからちゃんと持ち直すっていう映像を見たことがあったから。「うわあ、こりゃいいアイデアだわ」と思ったのね。
シンディ・ローパー
日本では「ハイ・スクールはダンステリア」という日本語タイトルで発表された「ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファン」によってシンディ・ローパーはソロ・デビューを果たします。僅か3万5千ドルの撮影費用で生み出されたそのミュージック・ビデオは、親族・友人を総動員した手作り感覚たっぷりの代物でした。
母親役には「ねえ、ママが参加してくれたら、このビデオがどんな意味を持つようになるか考えてみてーそうしたら自分のママと仲良くなるのをママと私が流行らせることができるのよ」と言って実の母親を口説き落とし(実生活では母親とはずっと口を利かない時期があったという)、更に父親役には実の父親を配し(ウソ。本当はWWFのプロレスラー・キャプテン・ルー・アルバーノ)、実弟のブッチ・ローパーもピザの配達人で出演。スネークダンスを披露するカイゼル髭の男性は、シンディの弁護士です。更に1978年に「ロミオの歌」で全米11位になったスティーヴ・フォーバートが花束を持つボーイ・フレンド役で登場します。
シャーリーとリーの古い歌「フィール・ソー・グッド」・・・さらに(プロデューサーの)リックが私に言った。「〝ファン〟って言葉に小さなしゃっくり声を入れてみたらどうかな」ちょっとバディ・ホリーっぽいそういう声はブルー・エンジェルで使っていたから、いいわよと答えた。曲全体がボブ・マーリィのレゲエへのブルース的アプローチ、いくつかのエルヴィス・コステロ、エルヴィス・プレスリー少々・・・などの結合だった。
シンディ・ローパー
しかし、当のシンディ自身は、「ヒットすると予感していたかと尋ねられると、女性にとってそんなにいい歌だとは思わなかったから、最初はあの歌をやりたくなかった」ので、半ばやけくそで演じたビデオでの芝居でした。しかし、この作品における最大の魅力は、一時期ファッション産業高校(ただし、成績不良のため退学)にいたという独特な感性が爆発したところにあります。それは一人の女性が、アルバムの全てのクリエーションに対してアート感覚を発揮した瞬間でした。
そして、最終的には、シンディ自身が確信したのでした。この曲は、ただのポップスではなく女性のためのアンセム(賛美歌)になりうる!と。そして、21世紀において、この曲は、〝自由を謳歌し、男性の財力にすがりつかず、自立する女性たち〟の賛美歌となったのです。