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セルジュ・ルタンスブランド香水聖典美人香水100選

【セルジュ ルタンス香水聖典】悪魔と天使が恋に堕ちる香り

セルジュ・ルタンス
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セルジュ ルタンス

Serge Lutens 資生堂にて「ノンブル ノワール」という歴史的名香を創造したセルジュ・ルタンスが、1992年にパレ・ロワイヤルにサロンをオープンし、「フェミニテデュボワ」を創造したことから、ニッチ・フレグランスの歴史ははじまりました。

以後、「アンブルスュルタン」「アイリス シルバー ミスト」等の名香を経て、2000年にパルファム・セルジュ・ルタンスを創立します。「世界中のフレグランス愛好家が最初にくぐる門であり、最後に戻ってくる門である」と揶揄される、フレデリック・マルと並ぶ「元祖ニッチ・フレグランス」。

フレデリック・マルとの大きな違いは、セルジュ・ルタンスという人物自体が持つ神秘性によるものです。彼こそは21世紀のラスプーチンであり、資生堂というブランドを世界へと羽ばたかせた「燃えたぎる日本愛に満ちたフランス人」なのです。

代表作

フェミニテデュボワ(1992)
アンブルスュルタン(1993)
アイリス シルバー ミスト(1994)
キュイールモレスク(1996)
ムスククビライカーン(1998)
テュベルーズクリミネル(1999)
サ マジェステ ラ ローズ(2000)
アンボワバニール(2003)
ダンブロン(2004)
ニュイ ドゥ セロファン(2009)
サンタルマジュスキュル(2012)

セルジュ・ルタンスの香水一覧
グラットシエルの全て
コレクション ノワールの全て
コレクション ポリテスの全て
セクション ドールの全て
レフラコンドターブル(パリ限定)の全て
ロー コレクションの全て

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ニッチ・フレグランスを創造した男

©Serge Lutens

ニッチ・フレグランスとは1992年に私が作り出したものだ。そして、二番目はフレデリック・マルだ!それ以外は、「ニッチ」という肩書きを利用した無意味なものに過ぎない。

フランスのフレグランス文明に新たなる光を灯した男の名をセルジュ・ルタンスと呼ぶ。あまりに過小評価されている彼の功績を3つまず挙げておきましょう。

  1. ファッション・ハウス(=クリスチャン・ディオール)にはじめてメイクアップラインという概念を生み出した。(1968-1980)
  2. 資生堂が世界マーケットに進出するビジュアル・イメージを作り上げた。(1980-1992)
  3. ノンブルノワールをはじめとするフレグランスに「物語、哲学、芸術、教養」を詰め込むことを最初に始めた。(1982-)
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ナチスドイツに占領された町に生まれたセルジュ

セルジュ・ルタンスは、1942年3月14日に、ナチスドイツ占領下のフランス北部の都市リールで生まれました。当時32歳だった母親が不倫により出産した子であり、当時の法律では姦通罪になるため一ヶ月にも満たないうちに母親から引き離され里子に出され、里親の間を転々とする幼少期を送りました(4歳まで)。

父親(占領していたドイツ兵ではない)を知らず、母親から引き離された少年は、誰とも口をきかずに、同年代の子供の間でも存在を消し去り、独りで人形や花と遊んでいました。パンくずや紙切れ、クレヨンなど、手当たりしだいのもので〝顔〟を作ることに喜びを感じていたのでした。

そして、14歳になった時に、親族により半ば強制的にリールのヘアサロンで働くように手配され(本当は俳優になりたかった)、やがて、ヘアメイクをした女友達をモデルに色々な世界観を写真を通して創造することに喜びを感じるようになるのでした。

セルジュは、1960年に18歳になり、一年間アルジェリア戦争のために徴兵され、この時はじめてアフリカ大陸の地を踏むことになります。

兵役が終わった1962年にセルジュはパリに渡り、 エドモンド・ シャルル=ルー編集長の下で「ヴォーグ・パリ」のために、同年クリスマス特集号から、メイクアップ・ヘアスタイリスト・装飾担当として雇われるようになりました。

以後、5年間のうちに「エル」や「ハーパーズ バザー」のためにリチャード・アヴェドンやアーヴィング・ペンなどのファッション・フォトグラファーと共に仕事することになります。

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メイクに革命をもたらした男

クリスチャン・ディオール、1977年。

クリスチャン・ディオール、1978年。

セルジュ・ルタンスの更なる躍進は、1967年にやって来ました。クリスチャン・ディオールのメイクアップラインの開発のため初代アーティスティック・ディレクターとして雇用されたのでした。そして、1968年にメイクアップライン発表後、そのスモーキーなアイシャドウは一世を風靡することになったのです(ちなみにそのすぐ後に、エスティローダーも同じようなメイクアップラインを発売した)。

かくしてシャネルに先駆け、世界で初めてラグジュアリー・ファッション・ブランドが最強のコスメラインを持つに至ったのです。

彼のメイクアップを見た「ヴォーグ」の編集長ダイアナ・ヴリーランドは、「メイクに革命をもたらした」と言ったほどでした。

ちなみにディオールのアーティスティック・ディレクターの歴史は、1968年から80年までセルジュ・ルタンス、そして、1981年から2013年までティエン、2014年から現在まで元シャネルのピーター・フィリップスがつとめています。



セルジュのこの時代のハイライトのひとつは、1973年に発表した、名画のイメージに基づくメイクアップ作品集でした。この時から、美術の世界とメイクアップの世界の隔壁を取り除き、女性のメイクアップの可能性を押し広げられたのでした。

1968年、セルジュは、ディオールの仕事で初めてモロッコに行き、そして、1971年にはじめて日本に行きました。この両国がのちの彼に対して与えた影響は計り知れません。やがて、1974年からセルジュは、モロッコのマラケッシュに移住することになりました。

のちに、資生堂時代に、セルジュ・ルタンスのミューズとなる山口小夜子(1949-2007)との初コラボは、ディオール時代の1978年にすでに行われており、その萌芽を見せていました。

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日本文化を愛するセルジュ・ルタンス

「娘日時計 巳の刻」喜多川歌麿、1794年ごろ

日本では、すべての芸術は死を目指すものです。なぜなら完璧は死に他ならないからです。

セルジュ・ルタンスが最も溺愛している芸術品のひとつが、喜多川歌麿が描いた18世紀の日本の浮世絵「娘日時計 巳の刻」です。顔や首の輪郭に墨線を用いないことにより、生娘の生命力に満ちた白い肌を表現しているのですが、この作品がセルジュの創作に与えた影響は計り知れません。

彼は他にも池大雅、土佐光信、長谷川等伯などの日本美術を好んでいます。そんなセルジュが、1980年に日本の資生堂と歴史的な創造活動を開始するのでした。

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神の領域に到達した資生堂時代のセルジュ・ルタンス

1980年に資生堂の外国部長であった福原義春(1931-)の要望により、セルジュは、資生堂のグローバルイメージ展開の責任者になりました。より分かりやすく言うと、資生堂がSHISEIDOになるための広告宣伝部長(ヒトラー政権におけるゲッペルスのような役割)を担うことになったのでした。

そして、1982年伝説の「ノンブルノワール」をプロデュースすることになりました。これが、セルジュと香水のはじめての係わり合いとなります。

私はモロッコを訪れるまで特に香水に興味はありませんでした。いいえ、むしろ、香水を嫌っていたと言ったほうが正確でしょう。1968年にディオールの仕事でモロッコを訪れ、スークの近くから香ってきたシダーに夢中になりました。これが私の香りの原点です。

私は、香水を作り方を全く知らなかったので、通常はやってはいけないことも、どんどんやってしまいました。そして、それが私の香りのオリジナリティとなったのです。私の香りは、調香師から生まれるものではなく、香水作りの専門的なプロセスを無視したところから生まれているのです。

さらに、1985年には、資生堂INOUIのリニューアルを担い、そのコマーシャルフィルムはカンヌ映画祭で金賞を受賞しました。

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山口小夜子


たしかに私はメイクアップと香水産業に革命を起こしました。しかし、今ではこれらの産業は、明らかに間違った方向に進んでいます。

真の意味での贅沢品とは、あなたとその対象物の距離により生まれるものです。

そして、資生堂時代に山口小夜子とのコレボレーションも活発化し、資生堂は、現在の「ジョージア=癒し系」のような、ただただマーケティングのためにだけ存在する化粧品ブランドとは一線を画した芸術を生み出す化粧品ブランドとしての頂点に登り詰めたのでした。

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香りに目覚めたセルジュ・ルタンス

私の中には一人の女性がいます。そして、私はこの女性自身でもあり、この女性の夫でもあります。私は絶えず、彼女を満足させるために何かを創造するのです。

1992年に元々書店があった場所に、レ・サロン・デュ・パレロワイヤル・シセイドーをオープンしました。そして、「フェミニテデュボワ」の創作により、10年ぶりに香水に関わることになります。以後、セルジュは、本格的にフレグランスの創作を開始し、2000年から、パルファム・セルジュ・ルタンスをスタートさせました。

セルジュ・ルタンスのフレグランスの特徴は、彼自身がモロッコのマラケッシュに住んでいることもあり、どのブランドよりもはじめて本格的にアラブ世界のフレグランスを、従来の重すぎる香りから、軽く受け入れやすくしたところにあります。

そして、もうひとつ重要な特徴は、1992年より、彼のフレグランスの調香師をつとめているクリストファー・シェルドレイクという盟友の存在です。しかも、ルタンスらしいのは、「私の香りのイメージは、全て独りで創造しているのだ」と言い切ってしまう所にあります。

セルジュの陰となり、恋女房のように彼がイメージしている香りを忠実に創造するシェルドレイクの日本の侍のような姿が、彼のもう一人の盟友であるシャネルのジャック・ポルジュとの関係性ととても似ていて興味深いです。

ちなみにこの二人がはじめて対面したのが、日本だと言うのも面白い事実です。

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セルジュ・ルタンスの人物像について

セルジュ・ルタンスが自分を象徴する絵画だと考えているパブロ・ピカソの「アビニヨンの娘たち

私は香水とライフスタイルを結びつけて考えたことなど一度もない。

香水が商業主義に支配された今、最も問題なのは、新しい香水ならどんなものでも尻尾を振り購入する人々や、ファッションブランドが(調香師とではなく)会計士と作り上げた香水を喜んで購入する人々の存在にあります。

セルジュ・ルタンス自身は、ずっと独身であり、モロッコのマラケッシュで一人暮らししています。彼は、白雪姫と呼ぶオスの犬を飼っています(子供の頃、最初に見た映画がディズニーの「白雪姫」だったかららしい)。

彼はテレビ、インターネットを一切見ず、携帯電話も持ちません。そして、食事は断食に近いほどの小食であるという(「私の最も嫌悪するもののひとつ。それは脂肪です」)。彼の一日は午前5時くらいの目覚めから始まり、ノートブックに延々と文章を書き連ねるか、本を読むかして正午まで過ごします。その結果、今までに何千冊ものノートブックが出来上がったのですが、それを読むことはないと言います。

ボードレールとジャン・ジュネ、プルーストを愛しておりその理由が、「彼らは文章を書くために生きていたからだ」と言います。そして、溺愛している映画が、ルキノ・ヴィスコンティの「地獄に堕ちた勇者ども」とジョセフ・ロージーの「召使」です。

彼が愛しているファッションは、ヨージ・ヤマモト、イヴ・サンローラン、シャネルだという。それはそれらのファッションの背景に物語を感じるからということです。「私は、誰かに注目してほしいという服を作るファッションデザイナーを真のデザイナーとは考えない。」

彼はマラケッシュの旧市街にある家を改修することをライフスタイルにしています。

ルタンスの作品からは、騒々しく、蕪雑で、品格を欠いたものに対する、静かだが激しい拒絶の念が感じられる。

西垣通

もともとルタンスの作品世界をつらぬくのは「抑制の美学」である。それがふしぎな気品と官能性をかもしだす。その雰囲気は歌舞伎というよりは能に近い。動よりは静を、豊麗よりは簡素を、誇張よりは沈黙をというのがルタンス流のスタイルの基本なのだ。

西垣通

最後に、セルジュ・ルタンスは当初、日本の京都のお寺の前にパレ・ロワイヤルのような一号店を作りたかったらしいです。なぜそれが実現しなかったのでしょうか?もし実現していたら、それはとても素晴らしいことだったと思います。

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セルジュ・ルタンスの香りのラインナップについて

最後に少し分かりにくいセルジュ・ルタンスのフレグランスのラインナップについて整理しておきましょう。

最高峰のラインが2014年からはじまる「セクションドール」です。そして、その次に位置するのが、2018年からはじまる「グラットシエル コレクション」です。

さらに、一般的にセルジュ・ルタンスの香りと言えばこのラインのものを示す「コレクションノワール」が続きます(一般のルタンス取り扱い店舗で販売されているのはこのライン以下のものです)。

さらに過剰な香水の匂いに満ち溢れたこの世界に対する反乱という〝アンチ・パフューム〟のコンセプトで、2019年に生み出された香りのコレクションが「コレクション ポリテス」です。そして、その原型として2009年に誕生したほぼ廃盤予定の「ロー」の全5ラインとなります。

そこに、釣鐘型のパレ・ロワイヤル本店限定の「レフラコンドターブル」が加わりコンプリートとなります。