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ファッション・モデル

『アメリカン・ジゴロ』Vol.9|ファッション・モデル界に革命を起こしたローレン・ハットン

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初めて企業と年契約したファッションモデル

1973年の終わりに、ローレン・ハットン(1943-)は、ファッション・モデル界に革命を起こしました。化粧品業界初の専属モデル契約をレブロンと交わしたのでした。

チャールズ・レブソン率いるレブロンの最高級ラインであるアルティマⅡの専属モデルを1974年から2年間で40万ドルで引き受けたのでした。そして、同じく専属フォトグラファーになったリチャード・アヴェドンは言いました。「彼女は夢と現実を結びつける人なんです」と。

1974年

1974年

1975年

1975年

1976年

「カラハリ砂漠で24日間一度も入浴しなかったが、肌はかつてないほどきれいだった」

ローレンは、チャールズ・レブソン好みのモデルではありませんでした。しかし、アヴェドンがローレンの名を伏せて、アルティマⅡのためのテスト撮影をし、その写真を大絶賛したレブソンが事の真相を知らされ、ローレンは再評価され、契約を勝ち取ったのでした。

そして、1984年までの8年間、1年に20日間だけレブロンの仕事をして25万ドルを手にしたのでした。ローレンの偉業によって、それまで通常時給60ドルで雇われていたファッション・モデルの報酬は、飛躍的に上昇することになりました。

ちなみにその後、1990年から11年間レブロンの顔になるシンディ・クロフォード(1966-)は、1991年にリチャード・ギアと結婚しました(1995年に離婚)。

1974年にファッション・モデルとしてはじめてニューズウィークの表紙を飾る。

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ローレン・ハットンの革命

1988年。歴史を変えたバーニーズ・ニューヨークの広告。フォトグラファー・スティーヴン・マイゼル。

スティーヴン・マイゼル

スティーヴン・マイゼル、ヴォーグ・イタリア、1988年12月号。ローラ・メルシエのメイク。

40歳を過ぎて、ほかの人がメイクを担当したときはひどかった!まるで売春宿の女将みたいだったわ。でもローラ・メルシエが、中年にさしかかった素敵な女性というコンセプトで私をメイクしてくれたの!

ローレン・ハットン

本作に出演後、ローレン・ハットンは、40歳を過ぎてからモデルの仕事がほとんど来なくなってしまいました。もっとも、当時のファッション・モデルにとって、それはローレンだけの話ではありませんでした。1970年代から80年代にかけて。「若さこそがパワーだ!古いものは悪だ!」という風潮があったのです。

そして、ローレンはもはやファッション雑誌を見ることもやめていました。

つらかったのです。自分は容赦なく年をとっていくのに、モデルたちはどんどん若くなっていくんですもの。

ローレン・ハットン

もうファッション・モデルの仕事は辞めようと、バーニーズ・ニューヨークからの広告依頼を断りました。しかし、とりあえずスティーヴン・マイゼルという男に撮ってもらう事になり、仕事を引き受けたのでした。そして、その時掲載された広告写真にローレンは衝撃を受けたのでした。

マイゼルはわたしを女の子のように撮らなかったはじめてのフォトグラファーです。その広告が出てから、私は道で女性に声をかけられ、こういわれるようになりました。「ありがとう。あなたのおかげで、ようやくわたしたち中年女性が忘れ去られた存在ではなくなったわ」

ローレン・ハットン

45歳から、写真修正を一切行わないことを条件にファッション・モデルとして復帰した1988年のバーニーズの広告がきっかけとなり、若さを強調したファッション広告に傷ついた中年女性たちが自信を取り戻したのでした。

若さだけがもてはやされるのは、歴史的、社会的な問題です。・・・その広告が出るまで、だれもわたしたち中年女性には目もくれませんでした。それは何百年も続いてきた歴史的な事実で、若さを失うや、女性はご用済みになってしまいます。けれども、バーニーズの写真は、40歳をすぎても女性が美しくセクシーでいられることを示してくれました。

ローレン・ハットン

ローレン・ハットンの革命。それは、1988年のバーニーズ・ニューヨーク、及び、レブロンエテルナ27のキャンペーン・モデルとして、フォトグラファー、スティーヴン・マイゼルと共に生み出した革命でした。

50歳目前のローレンが再びレブロンの顔に。エテルナ27。撮影:スティーヴン・マイゼル。

いままでの人生で、この3年間(バーニーズとレブロンと専属契約した1989年から1991年の3年間)ほど自慢できる年はありませんでした。モデルというのは、女らしさを体現する存在です。あらゆるサイズ、体型、年齢のモデルが生まれるべきですし、現在では実際にそうなりつつあります。・・・わたしは自分がやりたいことだけではなく、人のためになることを見つけたのです。何よりも見せかけだけの職業に思えたものを、重要な職業に変えるお手伝いができたのではないかと、自負しています。

ローレン・ハットン

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ミシェル・スタットンのファッション10

スカートスーツ
  • ライトスティールブルーのスカートスーツ
  • 白のブラウス
  • ベージュのハイヒールサンダル
  • カルティエのタンク

メンズライクなジャケットを着て拘置所に現れるミシェル。

カルティエのタンク。

足元は、パンプスではなく、サンダル。スカートスーツにカジュアル感を。

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メンズ・ライクなジャケットを着こなす天才

1980年、絶妙なジーンズとの組み合わせ。

同年。「私は普段は、ジーンズとスニーカの人よ」ローレン・ハットン。

ローレン・ハットンは、1980年当時、ダイアン・キートンと双璧を成すメンズライクなジャケットの着こなしが絶妙なアメリカ人女優でした。

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ミシェル・スタットンのファッション11

ラスト・ルック
  • こげ茶のニットカーディガン
  • 同色のニットの半袖のカットソー
  • 同色のスカート
  • ベージュのハイヒールサンダル
  • カルティエのタンク





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1980年、第52回アカデミー賞のプレゼンテーターに。

『刑事コジャック』のテリー・サバラスと共に。



1980年4月14日、ローレン・ハットンは、ロサンゼルスのドロシー・チャンドラー・パビリオンで行われた1979年度のアカデミー賞会場で、ゴールドのミニドレスで登場しました。

かつて一瞬付き合っていたマルコム・マクラーレン(セックス・ピストルズを創造した男)に「ハリケーンを愛しているようなもの」と言わせたローレン・ハットン。彼女は、すきっ歯と本人曰く〝バナナのような鼻をした湿地帯のスカンク〟のようなルックスで、ファッション・モデル界のみならず、世界の女性の歴史を変えたのでした。

作品データ

作品名:アメリカン・ジゴロ American Gigolo (1980)
監督:ポール・シュレイダー
衣装:ジョルジオ・アルマーニ
出演者:リチャード・ギア/ローレン・ハットン/ニーナ・ヴァン・パラント