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『グランド・ホテル』1|ジョーン・クロフォードの魅力

その他の伝説の女優たち
その他の伝説の女優たち
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女性は汚れてはじめて洗練されるもの

ジョーン・クロフォードは、白黒のライティングを生かすために、唇を横に広く描き、マスカラとコールをたっぷり使った。

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ディズニーアニメのようなジョーンの顔の造形。

私はいつも10分毎に手を洗っていました。グローブなしには外に出れません。私自身で封を開けた煙草しか吸いません。もし誰かが封を開けた煙草なら、私は絶対に吸いません。

ジョーン・クロフォード(究極の潔癖症)

スター女優になったジョーン・クロフォードは、1929年6月に、ダグラス・フェアバンクス・ジュニアと結婚しました。1930年に入り、サイレント映画の時代が終わり、トーキーの時代が始まります。再び、ジョーンは壁にぶち当たります。彼女の言葉はテキサス出身の南部訛りでした。しかし、なかば執念で短期間で、言葉遣いや発音矯正に根気よく取り組み、トーキー映画『モンタナの月』(1930)で、大成功を収め、フラッパー女優から洗練された女優への転進までも果たしました。

1932年世界初のオールスター映画である本作に出演しました。翌年1933年、フェアバンクス・ジュニアと離婚しました。以後ゆっくりとジョーンの人気は落ち込んでいきました。40代を迎えたジョーンは、起死回生の作品として『ミルドレッド・ピアース』(1945年)の主役を熱望しました。そして、ベティ・デイヴィスが断ったこの作品により、念願のアカデミー主演女優賞を獲得しました。彼女は名実共に“女優”となったのです。

ジョーン・クロフォードは苦労してスターになった分、献身的にファンサービスをする女優としても有名でした。ファンレターに対して、一通一通ちゃんと自分自身で返信したことでも有名でした。一方、グレタ・ガルボは、ファンサービスを決して行わず、サインをしたことがない女優でした。

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ゲランのコスメカウンターにいる美人BAのイメージ

サイレント映画を経験している女優の写真に対する表現力は、藝術の領域に達しています。

サイレント映画を経験している女優の写真に対する表現力は、芸術の領域に達しています。

1960年代セミリタイア状態だったジョーン・クロフォードは再び不死鳥のように蘇るのでした。ベティ・デイヴィスと共演した『何がジェーンに起ったか?』(1962年)によってです。監督のロバート・アルドリッチは、こう回想しています。「二人がお互いを心から嫌いあっていたことは間違いない。だが二人とも本当に完璧な立ち居振る舞いをみせた」。1977年5月ジョーンは心臓麻痺により、マンハッタンの自宅で死去しました。

不屈の闘志の人。ジョーン・クロフォード。肉体も精神も使い尽くして天寿を全うした人。1930年代はじめフラッパーのイメージから、洗練された女性のイメージに転進を図るために、彼女が行ったこと。それは、本来の薄い唇を無視して、大きな唇を描いたことでした。マックス・ファクター(1904-1996)が生み出したクロフォード・ルックです。以後、彼女は、日本の美容部員達にとっても、知らぬ存ぜぬでは済まされぬビューティー・アイコンとなりました。