ミア・フォンサグリーブス&ビッキー・ティール
本作においてエヴァ・オーリン、リチャード・バートン、フロリンダ・ボルカン、マリル・トロ、ニコレッタ・マキャヴェリの衣裳をデザインしたのは、ビッキー・ティールとミア・フォンサグリーブスのデザイナーデュオでした。日本ではほとんど評価されていない二人ですが、ファッション・シーンにおける二人の役割を過小評価してはいけません。
ビッキー・ティール(1943-)は、1962年にニューヨークのパーソンズ・スクール・オブ・デザインに在学中に、世界的なセンセーションとなるミニドレスをデザインしました。そして、同年、ビジネス・パートナーになるミア・フォンサグリーブス(1941-、スウェーデン出身のファッションモデル・リサ・フォンサグリーヴスを母に持つ。リサは、1950年にファッション・フォトグラファー・アーヴィング・ペンと再婚)と出会うのでした。
1965年の『何かいいことないか子猫チャン』でウルスラ・アンドレスのニットのスネークスキン・フロントジップ・ジャンプスーツをビッキーはデザインしました。元々は、1964年に二人がパリに活動の場を移した時に、オリジナルのジャンプスーツが創造されていました。
パリで二人は、デザイナーのルイ・フェローと出会い、彼の1964年のクチュールショーで、ミニドレスを発表しました。そして、LIFE誌において、「2人のアメリカ娘、パリでファッションショーを開く」という5ページに渡る特集記事が書かれ、60年代のユースファッションを象徴するデザイナーになりました。
二人は、1968年5月、エリザベス・テイラーの支援の下に、パリで初めてのブティックをオープンしました。その時に最も売れたのが、ジャンプスーツでした。バーブラ・ストライサンドは、赤とネイビーのレザー製のジャンプスーツを2着購入しました。
二人のパートナーシップは、1971年にミアがパリを去り、アメリカに帰国したことにより解消されます(リズ・テイラーは1995年までパートナーとして残る)。以後、ミアは、彫刻家兼ジュエリー・デザイナーとして大活躍します。
一方、ビッキーは、その後も創造が枯れることなく、1981年にはマミードレスを考案し、バーグドルフ・グッドマンにオープンしたビッキー・ティールのブティックの目玉商品となりました。そして、1985年にピープル誌において、マミードレスは、〝ストラップレスドレスの女王〟と呼ばれたのでした。
のちに『プリティ・ウーマン』(1989)においてジュリア・ロバーツが着たことによりプリティ・ウーマン・ドレスと呼ばれるようになるこのドレスのオリジナルは、1977年に、ビッキーがアンヌ・パリローのカンヌ映画祭用のドレスとしてデザインしたストラップレスドレスです。
最高のリチャード・バートンが観れる作品。
マクフィスト・ルック
- 風により髪は逆立ち
- ペールピンクのシフォンストールも揺れ動く
- クリーム色のフリルブラウス
- ダークブラウンのダブルのベルベットジャケット
- グリーンにストライプのコーデュロイトラウザー
- ネイビーのマント
- ブラウン・レザーブーツ
- ピンクのトランクス
この作品のリチャード・バートンを観ると、彼の素晴らしさが容易に理解できるはずです。ナポレオンのような誇大妄想狂的なカリスマ性を発揮しています。バートンだからこそ、その歩いた後を、女子高生が接吻していても異様な説得力に満ち溢れています。
ここでゲスト出演する男性スター達のカリスマ・ポイントを付けてみましょう。
リチャード・バートン ★★★★★
リンゴ・スター ★★★☆☆
ウェルター・マッソー ★★☆☆☆
ジェームズ・コバーン ★★★☆☆
マーロン・ブランド ★★★★☆
といった感じです。ちなみに、マクフィストの運転手役を務めるのは、偉大なるプロボクサーの〝拳聖〟シュガー・レイ・ロビンソン(1921-1989)です。1965年に引退したロビンソンが、本作に出演した当時は、今までに稼いだ金を全て使い果たし破産寸前だった時期でした。
小悪魔ではなく天使のようなキャンディ
キャンディ・ルック2 ノースリーブミニドレス
- 小花柄のグレーのミニドレス、フリル付き
- 白のローヒールサンダル