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エリザベス・テイラー9 『クレオパトラ』1(3ページ)

エリザベス・テイラー
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そして、ロンドンからローマへ。

日の目を見なかった『クレオパトラⅠ』の衣装その10。

日の目を見なかった『クレオパトラⅠ』の衣装その11。

日の目を見なかった『クレオパトラⅠ』の衣装その12。

日の目を見なかった『クレオパトラⅠ』の衣装その13。

日の目を見なかった『クレオパトラⅠ』の衣装その14。

日の目を見なかった『クレオパトラⅠ』の衣装その15。

全く映画が完成する見込みのない状況の中、リズ・テイラーはアカデミー主演女優賞を受賞し、彼女の商品価値を益々高めていきました。この時期のスクーラスとリズ・テイラーの会話が二人の関係性を示しています。

スクーラスは、リズ・テイラーを持て余していました。もう代役を立てるべきだなと考えていました。そして、彼女に会った時に、リズ・テイラーが第一声に放った言葉が、「あなたはわたくしの名をご存知かしら?」でした。そして、こう続けました。「もし、ご存じでなければ、100万ドルの半分は返金してもいいんですよ」と。そのリズの圧倒的な上からの言い様にさすがのスクーラスも、「私はあなたの名前を知っています!あなたの名はクレオパトラです!」と答えたのでした。

この瞬間、リズ・テイラーを止められる人は、地球上にもう存在しなくなりました。そして、スクーラスは、彼女の健康状態とエジプトに見えるロケーションを考え、ロンドンではなく、ローマのチネチッタで撮影することに変更したのでした。そして、リズが反対していたマムーリアンから、彼女が希望していたジョーゼフ・L・マンキーウィッツに監督を交代させたのでした(リズは、彼かジョージ・スティーブンスを希望した)。マンキーウィッツは、この大任により、はじめて大金を手にすることになりました。

1961年9月25日に撮影が再開することになり、シーザーとアントニー役の二人は、スケジュールの都合もあり降板しました。そして、マンキーウィッツは、シーザーに『第三の男』(1949)のトレヴァー・ハワード、アントニーに『欲望という名の電車』(1951)のマーロン・ブランドを希望し、最終的にレックス・ハリソンとリチャード・バートンが起用されたのでした(スクーラスが史上初めてシネマスコープを導入して革命的な大ヒットを生み出したのは、1953年のリチャード・バートン主演の『聖衣』によってでした)。

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プトレマイオス朝と共和制ローマの再現

実に特徴的なプトレマイオス13世の王冠。ナイルの戦い前夜。

額のウラエウス。「立ち上がったコブラ」こそが古代エジプトの王権の象徴です。

本作は、アカデミー賞美術賞(カラー部門)を獲得しました。責任者はジョン・デキュアーです。彼は『王様と私』(1956)と『ハロー・ドーリー!』(1969)でも同賞を獲得しています。

古代エジプトの調度品の多くは、クフ王の母ヘテプヘレス1世(紀元前2600年ごろ)の墓の副葬品を忠実に複製したものでした。さらに、古代ローマのフォーラム(大集会場)は150万ドルかけて、実際のものより3倍も大きいものが作られました。ただし、脚本が出来ていない状態で79つものセットデザインをせざるを得なかったため、不必要なまでの豪華さと、例えばアレクサンドリアを3回作り直すといったような非効率極まりない環境で、それらは生み出されました。

残念ながら、戦闘シーンにおいても、群衆シーンにおいても、人間ドラマにおいても、セットデザインをただ平凡に背景として映し出しているシーンがほとんどであり、これほど豪華絢爛なセットデザインが効果的に生かされませんでした。ただし、アート的要素として本作を見る場合、詳細に渡るセットデザインの素晴らしさは他に類を見ないものです。