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作品データ
作品名:ベニスに死す Death in Venice (1971)
監督:ルキノ・ヴィスコンティ
衣装:ピエロ・トージ
出演者:ダーク・ボガード/ビョルン・アンドレセン/シルヴァーナ・マンガーノ/マリサ・ベレンソン
美しきもの見し人は、はや死神に囚われたも同じである プラーテン
完璧主義というよりは緻密なんだ。子供の顔に当たるグラスや皿の反射など、本当に細かいところまでこだわる。撮影中の彼を見ればいかに非凡な人かわかる。 ― ヴィスコンティについて語るダーク・ボガード
美は細部に宿ります。ルキノ・ヴィスコンティという人は、死神なのでしょうか?彼に囚われた美少年は、アンドロギュヌスとしての役割を全うさせられるためにどれだけ多くの試練を乗り越えさせられたのでしょうか?ヴィスコンティはこう語っています。
「タッジオを少し娼婦的に表現したいと望んでいた。僕の頭の中には、肉欲的な魅力と、子供の持つ純真さをどうやって統合させ、しかも別々に表現しようかという思いがあったんだ。ついでにいうと、娼婦の女がちょっとタジオを想わせるのは、彼女に子供のような純真な面があるからさ」「要するにタジオとは、アッシェンバッハの人生の両極にあるものの、片方を具現化したものに他ならないのさ」
ヴィスコンティは、明確に、タジオにアッシェンバッハを誘惑する男の子の役柄を望んでいました。そして、15歳の少年に対する役作りの一環として、ヴィスコンティとそのスタッフは、ビョルンをゲイのナイトクラブに連れて行きました。男性に興味がない、女性に対しての性欲が旺盛な思春期真っ盛りのこの少年にとって、クラブでハイエナのように、おいしそうな肉を食らいたいと、ねっとりした目で見つめる男達の視線に恐怖を覚えたと回想しています。
そして、その時にヴィスコンティはタジオに言いました。「男たちの目つきを忘れないように。キミがその目をアッシェンバッハにするんだよ」と。芸術家の本質が、このエピソードには秘められています。それは、本当に単純に、芸術家とは変態性を愛する人達ということです。なぜ女性に芸術家が少ないのか?その答えもここから容易に導き出されます。私は、女性はもっとそうなるべきだと考えます。そして、そのスイッチを押すきっかけとなるのが、アンドロギュヌスに対する興味なのです。
タジオ・ルック4
- チューリップハット
- 白地にネイビーのボーダーのマリンセーター
- 白パンツ
深い夢から私はいま目覚めた ニーチェ
音楽家アッシェンバッハは生涯かけて絶対的な美というものを作品にしようとしていたんだ。しかし年を取るにつれ、自分の望みが空しいものと気付いたんだ。そうなるとエロスの介在が不可欠になってくる。僕はこれを真実と想像のバランスを保ちつつ、現実的であると同時に幻想的に描きたかった。タジオはアッシェンバッハの前に突然現れて、死をもって完結すべき人生の昇華へと音楽家を導いていく。少年は生の象徴だけど、その独特の雰囲気は刺激的かつ退廃的な美の象徴でもあるのさ。そしてトーマス・マンは結婚についての作品で、「美を見つめる者は、死の手に捕われるだろう」と書いているんだよ。 ― ルキノ・ヴィスコンティ
私達は、1つのタブーと向き合わなければならない時期に対峙しつつあります。若さと性欲の関係は、若いもの同士よりも、若さと熟した者との交わりの方が、遥かに双方の人生にとって素晴らしい才能を覚醒させるのではないかと言うことです。若さにとって、老いを知ることは、とても困難を要することなのですが、老いつつある人を愛したならば、若くして老いを理解する事が出来、若さを無駄にしなくて済むことになります。昔と今の芸術に対する人々の素養の違いはまさにココにあるのではないないかと強く感じます。
自分の中のアンドロギュヌスを目覚めさせよ!私達は自分の中の美しさを、女性であるならば、その中にある少年性を増長させ、男性であるならば、その中にある少女性を増長させていく楽しみに身を委ねる段階に来たのです。そのアンバランスなバランスこそが、あなたの魅力を、覚醒させるのですから。
タジオ・ルック5
- グレーのランニングシャツ。胸のあたりにネイビー×赤ボーダー
- ネイビーのショートパンツ
- 女優帽にネイビーのリボン
- 腕に日焼け跡