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【ユーリズミックス伝説】1|アニー・レノックスとアンドロギュヌス

ユーリズミックス
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第六チャクラ。覚醒せよあなたの男性よ

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「スウィート・ドリームス」 1983年8月全米第1位/全英第2位(全米初シングル)

この曲により、ユーリズミックスの歴史が始まりました。1981年8月1日のバグルスの「ラジオスターの悲劇」の放映からスタートしたMTVが、ポップカルチャーに与える影響力の強さを世界に震撼させた曲でもあった。メンズスーツを着た女性。それも、ファッション・デザイナーが女性向けにデザインしたものではなく、男性のテーラードスーツを女性の寸法に合わせて着てみましたというスタイルが、彼女が女性なのか男性なのかより分からない神秘性を生み出しました。そこに、アニー・レノックスの舞台女優のような完成度の高いメイクが加味され、究極のアンドロギュヌスとして人々が、引き返せない道を示しました。

はじまりは「ドン!」とテーブルを叩く姿からです。アドルフ・ヒトラーが演説しているかのような仕草を、ジュリー・アンドリュースがサウンド・オブ・ミュージックを歌うかの優しさで、アニーは行います。この無機質な世界観を、激しさで表現するのではなく、柔らかな動きで表現している所にユーリズミックスのユーリズミックスたる所以があります。第六チャクラを刺激するように、耳元で読経しているような独特な歌唱スタイル。

1995年にマリリン・マンソンがカバーし、これがグループ初ヒット曲になります。マンソンが自分の中のアンドロギュヌスに目覚めた作品でもありました。スーツ姿で座禅し、覚醒する先にあるもの。それは、女性と男性を越えた究極の存在と言う〝甘い夢〟であり、その夢を束の間に体現できるのが、ファッションの持ちうる力なのです。

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48人の操り人形たちが束になっても到底敵わない世界観。

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スタイリングは全て2人でやりきると言うプロ意識の高さ。

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後に日本のヴィジュアル系ロックに与えた影響は計り知れない。

アニー・レノックス・スタイル1 「パワースーツ・スタイル」
  • ダブルのブラックスーツ。ストロング・ショルダー
  • 白のドレスシャツにシルバーのネクタイ
  • 黒のショートレザーグローブはマスト

何よりも重要なのは、メンズ・スーツを女性的なデザインに落とし込んだものを着るのではなく、メンズ・スーツをそのままアニー仕様にテーラードしたものを着ている点にあります。身長173cmの彼女だから出来るスタイルと言えるでしょう。

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ハンネローレ・クヌート(1977-)。ベルギーのファッション・モデル。

ジャン=ポール・ゴルチエの2013年春コレクションにて、アニー・レノックスのこの曲のPVスタイルにインスパイアされたルックが発表されました。ラペル部分のカッティングがゴルチエらしく素晴らしいです。

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アニー・レノックスとは?

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アカデミー在籍中のアニー。

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アニー・レノックス。1981年。

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アニー・レノックス。1981年。

ヨーロッパ有数の石油都市であるスコットランドのアバディーンに、1954年のクリスマスに生まれる。幼少期からずば抜けた音楽の才能を持ち、17歳の時にロンドンの王立音楽アカデミーに入学する。3年間、フルート、ピアノ、チェンバロを学び、優秀な成績で奨学金を得ていました。しかし、この頃から、クラシック音楽に対する情熱は消え失せ、モータウン音楽や60年代のポップスに興味を持つようになる。

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アカデミーを中退し、ウェイトレスやバーメイドとして働きながら2年間小さなグループでシンガーとして歌っていたが芽が出ず、両親からの説得により、故郷への帰郷を決意する。そんな1976年末のある日、アニーがウェイトレスをしているレストランの常連客にポール・ジェイコブスというレコード・ショップのオーナーがいた、彼が紹介してくれた自称ミュージシャンの若者こそが、デイヴ・スチュワート(1952-)だった。会ったその日にナンパされ、同棲するようになり、1977年、ザ・キャッチを結成する。このバンドは後にザ・ツーリスツと改名する。1979年、ダスティ・スプリングフィールドの「二人だけのデート」をカバーし、全英第4位になるが、1980年12月オーストラリア・ツアー中にバンドが分裂し、解散する。その翌年に、アニーとデイヴで、ユーリズミックスが結成される。