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『天城越え』 日本の美13(3ページ)

田中裕子
田中裕子
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決して騒ぎすぎず、しっとりと美しく感情の流れを表現する

この時代、田中裕子様は、一種の日本のスタイル・アイコンでした。

能面のようなルックスが、笑顔になり、ひょっとこのようになる。

そして、蜃気楼のように三連続する「さよなら」シーン。

ハナの10分間の取調べのシーンと3分間の別れのシーンは、この作品の前章のハイライトです。この時のハナの「怒り」「恨み」「諦め」「驚き」「悟り」へと転換していく感情の流れを、裕子様は、短時間で見事としか言いようのない、削ぎ落とした演技で表現していくのです。

ここに日本人女性の静なる美が完璧に体現されていることを、私は知り唖然とさせられたのでした。どうしても日本の美は、上流階級ではなく、庶民によってのみ体現しうると言う本質について、白洲正子様の興味深い一文がございます。

私はそこにまざまざと、明治以来の日本の姿を見たように思いました。上の階級は、西洋の真似に余念がなかったが、下の方は等閑(なおざり)に付されて、それ故美しい形が残っていたのです。これは、きもの全体のあり方についてもいえることで、この頃ようやく見直されている、紬(つむぎ)や木綿絣(もめんがすり)の美しさも、田舎の農村などで、見向きもされず放っておかれたから、生き永らえたといえましょう。きものばかりではなく、日本には、未だ美しいものが沢山発見されずに残っているのです。

『きもの美』白洲正子

雨に濡れた娼婦の姿が、どうしてここまで神々しく見えるのでしょうか?女優の力と映像の力が組み合わさることによって、永遠に記憶されることになった昭和の日本の美。着物というファッションのみが示しうる最高の美の形態がここにあるのです。ハナは、さよならの言葉を発した時に、この少年の心よりも1円(現代の貨幣価値で言うと3000円)を選んだ自分の生き様の浅ましさに心底嫌気がさし、詫びていたのです。天城越えとは、少年にとっても分岐点だったのですが、ハナにとっても運命の分岐点だったのです。

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〝吹き流し〟の美学

建造少年を演じた伊藤洋一君の名演を忘れてはなりません。子役が素晴らしかったからこそ、ハナの花は咲いたのでした。

「あにさん。あたしの知ってる人。誰かに似てるよ~」と言って抱きつくハナ。

そして、この笑顔である。どんな男性さえも虜にする磁力を持つオンナの名は、田中裕子様。

「あぶな絵」 鳥居清満画。

「見返り美人図」菱川師宣画。

足付は姿の根本大々事なり、昔時より足の指に力を入れてあるくものに美人なし、女を買うに足の拇指(親指)を見るという女衒道(女を買い付ける道)の云い伝えも候、塵埃を立てる擦り足、地ひゞきする力足、勿論悪女なり、踏張(ふんばり)足、齷齪(あくせく)足、外輪(つま先を外側に向けて歩くこと)、大股。いじかり股(股を広げ、足を曲げて歩く姿)、無論美人ならず、早足の女必らず男に捨られるもの、遅足の女きっと朋輩に蔑すまるゝもの、凡て座敷を歩む時は軽くしとやかに、足袋半分より多くは裾の内より露わさず、往来をあるく時は下駄の鼻緒をたよらず、ゆたかに軽き音さしてあるかるべく候。

『艶魔伝』幸田露伴

「ハイ。ハイだって~」と少年にしなだれかかるハナ。しかし、このハナの台詞回しの巧みさはどこから生まれるのだろうか?甘いようでありながら、そこには女郎的な卑下した雰囲気は微塵もなく、むしろすがすがしい瑞々しさに満ちているのです。

この出会いのシーンにおいて最も効果を発揮しているのが、梅の描かれた手ぬぐいを吹き流しでかぶる姿なのです。浄蓮の滝を通り過ぎ、ハナの名を名乗った後に、すみやかに流れるピアノの旋律の美しさ。それは、童話的な音色でさえあった。

片方の布地を軽く噛みながら歩く姿が実に艶かしく、それでいて全く下品ではありません。それは恐らく彼女の姿が、まるで生きる浮世絵のような所作の連続だからではないでしょうか?田中裕子様の本当の恐ろしさ。それは、彼女が、自分自身の動きの全てを浮世絵の世界観に反映させたところにあるのです。