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シンディ・ローパー伝説5(3ページ)

シンディ・ローパー
シンディ・ローパー
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ランジェリーでライブ・パフォーマンス!








シンディ・ローパー・スタイル25 ランジェリー・スタイル
  • ネオンカラーのビスチェとガーターストッキング

1986年のトゥルー・カラーズ・ワールド・ツアーの衝撃は、何と言ってもシンディ・ローパーのランジェリー・スタイルでした。大観衆を前にしてポルノ女優のようなスタイルでポップソングを歌うスーパースターの姿を最初に披露した人それがシンディでした。

そして、マドンナも1987年のフーズ・ザット・ガール・ワールド・ツアーからランジェリー・スタイルをコスチュームの中に取り入れていくことになりました。

来日公演で阪神タイガースの掛布雅之のユニフォームを着るシンディ。

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スクリーミング・ミミとは

この店のファッションに対するアプローチが楽しいからだ。ユーモアがあって、ウィットがあって、セクシーさがあって、古い映画の雰囲気があった。あの店にいると、私はいつも自分が古い映画の中で生まれたみたいに感じてしまうのだ。私にとってスクリーミング・ミミの装いっていうのは、たんなるスタイルではなくてームーブメントそのものだったのね。

シンディ・ローパー

スクリーミング・ミミとは、ローラ・ウィリスビフ・チャンドラーが1978年にアッパー・ウエスト・サイドにオープンしたヴィンテージ・クローズ(古着)・ストアです。ブルックリンの百貨店エイブラハム&ストラウスで働いていた二人は、USヴォーグのエディター、リン・イェーガーに師事しており、「アニー・ホール」のダイアン・キートンのアニー・ルックをコンセプトにポップアップストアを作りました。大きな成功は得られませんでしたが、二人は手ごたえを感じました。

そして、お互いに両親から1000ドルを借りてスクリーミング・ミミを創設しました。店名は同名のアニタ・エクバーグの映画(1958年)から取りました(レント料が一ヶ月300ドルという破格の場所を抑える)。商品は、メンズも扱っており、価格帯は8ドルから1500ドルのデザイナーズ・クローズまで。その最大の特徴は、カスタマーのためにスタイリストがいることでした。

まず二人は50年代のロカビリー・アイテムを徹底的に買い占めました。そして、そんな時にブルー・エンジェルの衣装を探して、無名時代のシンディ・ローパーがやって来たのでした。「私はカーコートといくつかのカプリパンツを購入しました」。

やがて、ローラとビフと仲良くなったシンディは、1980年代の初めに販売員兼スタイリストとして約1年間働くことになりました。後にローラは15年間、シンディのパーソナル・スタイリストとして、ツアーにも同行することになります。ローラは回想します。「シンディは素晴らしい販売員でした。そして、彼女は50年代のヴィンテージ・アイテムに夢中でした。ただし、自分が気に入ったものは絶対に誰にも売らずに自分用に取り置きしちゃうんです」。

シンディ・ローパーが、スーパースターになると、スクリーミング・ミミの知名度もアップしました。今では、アレクサ・チャンマーク・ジェイコブスなども常連の、ヴィンテージ・ストアの草分け的な存在としてニューヨークのファッショニスタの聖地となっています。

シンディがかつて働いていたスクリーミング・ミミにて。

シンディ・ローパーとマドンナの違いは、ファッションに対するこの姿勢だ。

シンディお気に入りのマネキンと共に。

シンディ・ローパー・スタイル26 クリスマス・スタイル
  • グリーンのカーディガン
  • パテントレザーの黒ベルト
  • 黒のエナメルミニスカート
  • 黒のパンスト
  • ハイヒールパンプス

それでも心の奥深くで私は彼女たちが卑下しているファッションを密かに愛していた。私たちの歩みを遅らせるハイヒールみたいに、ファッションには反女性的な要素がある、ということには同感だったけど・・・