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【マドンナ伝説】第一章 マドンナ生誕からメジャーデビュー前夜まで

マドンナ
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マドンナ生誕(1958)~メジャーデビュー前(1982)

Madonna 1958年8月、同じ年の同じ月に、ファッションの歴史を一変させることになる二人のポップスターが誕生しました。その人の名をマイケル・ジャクソンマドンナと申します(マイケルは8月29日、マドンナは8月16日生まれ)。

アフリカ系アメリカ人の男性マイケル・ジャクソンと、イタリア系アメリカ人の女性マドンナ。同年同月に生まれた二人(しかし、マイケルは乙女座で、マドンナは獅子座)は、その後の人生において、決して共同作業を行うことなしに、ポップ・ミュージック界の王と女王の地位を目指してそれぞれ突き進み、21世紀に入り、見事戴冠を果たしたのでした。

ファッションアイコンと呼ばれる数々のポップスターの中でも、マドンナほど、「反逆のファッション」を生み出してきた人はいません。彼女こそが、黒人のファッション感覚を、白人のフィルターを通して取り入れた史上初のポップスターであり、ストリートとファッションの融合を、ファッション・デザイナーよりもいち早く成し遂げた人でした。

つまり、彼女のファッションの遍歴を知らずに、1980年代以降の、ファッションの歴史を語ることは出来ないということです。ここまでファッション史に影響を与えたポップスターが、どれだけいるでしょうか?だからこそ彼女の存在は、ココ・シャネルに匹敵し、オードリー・ヘプバーンに匹敵すると言えるのです。

デボラ・ハリーとクリッシー・ハインド(プリテンダーズ)にはすごく刺激を受けたわ。二人とも女性で、バンドの中心人物だったでしょ。詞を書いていたのは明らかに彼女たちだし、ふたりとも強烈なイメージを持ってたからすごく勇気づけられたの。

マドンナ

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イタリア系の父とフランス系の母の間に生まれる。

マドンナの父シルヴィオ・“トニー”・チッコーネ(1931-)は、1920年4月にナポリ港からアメリカに移住したイタリア人の両親の間に生まれたイタリア系アメリカ人でした。一方、母のマドンナ・ルイーズ・チッコーネ(1933-63)は、17世紀にフランスを離れ、カナダのケベックに定住したフランス系カナダ人でした。

マドンナ・ルイーズは兄の結婚式の日に、兄の友人トニーと出会い、3年の交際期間を経て、1955年7月2日に結婚しました。マドンナ・ルイーズはX線技師として働いていました。

ミシガン州ベイシティで、トニーはクライスラーとゼネラルモーターズで、戦車設計などのデザインエンジニアとしてかなりの高給を得るようになりました。

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本名:マドンナ・ルイーズ・ヴェロニカ・チッコーネ

初聖体拝領を受ける9歳のマドンナ。

父親とその再婚相手と兄妹とマドンナ。1970年。

1973年の高校のアルバム。マドンナは左端の下から2段目です。

右上がマドンナ。常に目立つことを考えていた彼女は、スカートをまくり上げ、肌色の下着を身につけ、注目を浴びていました。

チアリーディング部を辞め、演劇部で主役として活躍するようになった頃の高校時代のマドンナ。1976年

ほんの子どものころから、自分が女の子だってことや、いかにも女の子らしい魅力を振りまくことでたくさんのものが手に入る、って知ってたわ。それを最大限に利用したものよ。

マドンナ

父とは今はうまくいってるわ。父はあまりいろいろ話すタイプじゃなくて、あたしはずっとそれが不満だった。あまり感情を出さない人なのよ。そして何より、あたしは父に認められたかったの。父はいつもあたしに愛情を注いでくれたわ。父に対してはいろんな感情が入り混じっているけど、一番は死ぬほど彼を愛してるってことね。父にとってつらいのは、あたしに必要とされていないんじゃないか、って思うことよ。でも、あたしには父が必要なの。

マドンナ

宿題がないときは、父が何かしら家事を見つけてくるの。あたしたちに時間を有効に使え、って一歩も譲らなかった。父は貧しい家で育ったの、祖父母はイタリアからの移民なのよ。・・・私は父の性格をいくらか受け継いでるわ。頑固だし、場をシラけさせちゃうしね。・・・要するに、もし父が厳格な人じゃなければ、あたしの人生も変わってただろうってことなの。だって、父が厳しかったおかげで強い自制心が養われたと思うし、それはあたしの人生やキャリアにおいてすごく役立ったわ。

マドンナ

1958年8月16日午前7時5分、二人の間に、長女としてマドンナは誕生しました。8人兄妹の3番目であり、母と同じ名のマドンナ・ルイーズと名付けられました。

母親マドンナは、1963年12月1日に、娘が5才の時に乳癌で死去しました。マドンナにとって、母親の印象は、「いつも涙を流している美しい女性でした」。

彼女にとって、母親の笑顔を知らないことは、一つの苦しみであり、母親の分まで、一生懸命に生きようと、若くして誓うほどでした。そして、長女として、母親の役割を務めるようになった矢先の3年後に父親が再婚し、マドンナは父親に対し、複雑な感情を持つようになりました。

教育熱心な父親により、ピアノも習い、後に、14歳の頃から3年間バレエも習うようになったマドンナは、父親に対する反抗心から、厳格なカトリックの学校において、将来修道女になりたいと妄想しつつも、奇抜なファッション・センス(服の一部を裂いたり、スカートを短くしたりというセクシーな着こなし)により目立つ存在になりました。

1972年にミシガン州でもトップクラスの名門高校に進むと、マドンナはチアリーディング部に所属し、大観衆の前で自分の魅力を曝け出すことに喜びを感じるようになりました。

この頃のマドンナは絶対にわき毛を剃らずに、堂々と同級生の男子に見せ付けるようなファッションを好んでいました。しかし、成績の方はオールAで、最終学期を飛び級して卒業するほど優秀でした。

子どもの頃、黒人だったらよかったのに、って思ってたわ。女の子の友達はみんな黒人だった。その頃はミシガン州のポンティアックに住んでて、近所であたしは明らかにマイノリティだったのよ。聴く音楽もブラックミュージック。黒人の女友達が羨ましくてたまらなかった。だってあちこちつんつん立ったブレードヘアができるんだもの。あたしも髪を突っ立てたくて、四苦八苦しながら髪の毛にワイヤーを入れて編みこんだものよ。コーンロウやなんかにもよくしたわね。・・・あたしのお気に入りはシュレルズ、ロネッツ、マーサ・リーヴス&ザ・ヴァンデラス、そしてシュープリームス。彼女たちの音楽こそ、まぎれもないポップソングだわ。

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1974年には、8㎜フィルムで学友と『The Egg Film』という、ビキニ姿で、お腹で卵を焼く動画を撮影しました。

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マドンナ、ニューヨークへ出る

1977年5月、19歳のマドンナ。

ミニワンピに、メリージェーン。1976年、ミシガン大学にて。

何よりも目立つことが大好きな女の子でした。

学生時代から、すでに露出大好き。リアル・キューティーハニーのような女の子でした。マドンナの生き方は、ある意味、一貫性があります。

女の子たちはみんな黒のレオタードにピンクのタイツ姿。髪の毛はおだんごにして、小さな花をさしてるの。だからこっちは極端にショートヘアにして、突っ立つようにワックスで固めたわ。それからタイツを破ってあちこち伝線させて、レオタードの真ん中を大きく切り裂いて、それを安全ピンで留めていくの。みんなより目だって、こう言うためなら何でもしたわ、『いい?あたしはあんたたちとは違うの。そりゃダンスレッスンやなんかは受けてるけど、あんたたちみたいにここで終わったりしないわ』。

マドンナ

マドンナは、1976年に奨学金を得てミシガン大学音楽学部に入学するが、1年半後に退学しました。彼女は大学に入ってからずっとプロのダンサーになるためにニューヨークに出る資金を、アイスクリームパーラーやヌードモデルにより貯め、ニューヨークのタウンガイドの間に挟んで蓄えていました。

そして、1978年7月、着古したレオタードやバレエシューズ、アクセサリーの詰まったボストンバッグと37ドル(当時のレートで約12000円)。たったそれだけを持ち、グレイハウンドバス(長距離バス)で、ニューヨークに出る決意をします(実際はお金は念入りに貯めていたので、もう少し多くのお金を持っていたのかもしれません)。

そして、ニューヨークに到着したマドンナが、最初にしたことは、タクシーに乗り、当時、ニューヨークで一番賑やかな場所だったタイムズスクエア(この頃は、売春・ポルノの巣窟だった)に行く事でした。

そこで彼女は心に誓ったのでした。「絶対に成功してやる。絶対に成功しなきゃ。だってもうほかに行く所はないんだから!私はこの世界で神よりも有名になる!」と。マドンナのニューヨーク生活は始まりました。

最初の年、私は銃を突きつけられた。背中にナイフを突きつけられて建物の屋上に引きずり上げられ、(暴行を)受けたし、アパートにも3回も侵入された。理由はわからない。最初にラジオを盗まれた後は、もう価値のあるものは何も持っていなかったのに。

マドンナ、ハーパーズ バザー・インタビュー、2013年

1970年代当時、ニューヨークの治安は最悪でした。マドンナが最初に住んだ場所は、NYのカウンター・カルチャーの中心地ではあるが、スラム化の一途を辿っていたイースト・ヴィレッジのはずれ、4番街232番地のボロアパートでした。

廊下にはアル中がたむろし、建物はすえたビールの臭いが立ち込め、部屋はゴキブリだらけというもので、生活のため、ダンキン・ドーナツでアルバイトをし、「道で見つけたものを食べたりゴミ箱をあさったり」しながら、空いてる時間の全てをダンスレッスンに充てました。

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周りとは違うんだという精神!

ファッション・カメラマン、マイケル・マクドネルが当時20歳だった無名のマドンナに声をかけて、約8ヶ月間、1978年~79年にわたり撮影した。

オールブラックにショートヘアーのマドンナ。

これらの写真が撮影された細かい経緯は不明です。

うんとおめかしして外に出て、ぶらぶら歩き回るのが好きだったわ。その頃はタクシー代もなくて、よく地下鉄に乗ってたの。そして自分が周りに強烈なインパクトを与えてるのを見るのが好きだった。でも今じゃそんな楽しみも味わえないわ。だってもうみんなの気を引くことに成功しちゃったんだもの。街を歩いてもみんなの目に映るのは〝マドンナ〟で、誰もあたしをひとりの個性のある人間とは見てくれない、って感じるの。

マドンナ

この頃、二人組の男性にナイフを突きつけられ、フェラチオを強制されたとマドンナは告白しています。「私はこの日を境に、強い女性として生きる決意をしました。あの日の屈辱は決して、今も、忘れません」。

そう、マドンナは、本当にストリートから生まれたスターなのです。

そして彼女の(あらゆるピリオドの)ファッションセンスが、いまだに時代を超えて女性たちのハートを鷲掴みにするのは、ただ、ファッションでストリート・ファッションに身を包んでいるポップスターとの本質的な違いが感じられるからなのかもしれません。

マドンナは、誰かに作られたスターではなく、彼女自身の執念により生み出されたポップスターなのです。

これが、多くの世界中のポップアイドル達が、彼女の足元にも及ばない根本的な理由です。さらに言うと、一時的なファッション・アイコンと、時代を超えた不滅のファッション・アイコンの違いです。保護されて売り出された操り人形の着せ替えファッションなぞは、スタイリストに押し付けられた奴隷服のようなものですから。

「マドンナは誰にも支配されない」。本物のファッション・アイコンとは、誰かに作られた偶像とは真逆の存在なのです。

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1979年、マドンナ、はじめてパリに行く。

1979年。ヨーロッパでカットソー一枚のマドンナ。

パトリック・ヘルナンデスとマドンナ。

1979年に、マドンナは、世界中で大ヒットしたパトリック・ヘルナンデスの『ボーン・トゥ・ビー・アライブ』のワールド・ツアーのダンサーのオーディションに合格し、パトリックと短期間交際することになりました。

そして彼のフランス人プロデューサー達と知り合い、5月に人生で初めてパリに行くことになりました。しかし、パリで過ごした3ヶ月間、マドンナはキャリアにおいて何ら重要なことを成し遂げられませんでした。

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1979年~1980年、ブレックファースト・クラブで活動する。

ドラマーとして、はじめてのバンド、ブレックファースト・クラブに参加するマドンナ。

ヴォーカリストとしても活躍するようになる。

同年9月、マドンナはパリでポップスターになる夢破れて、単身、無一文でニューヨークに舞い戻ることになりました。帰国後、元カレ(ダン・ギルロイ)の家に転がり込み、ギターとドラムを習い、ドラマーとして、はじめてのバンド、ブレックファースト・クラブ(ギルロイ兄弟による)に参加することになりました。

やがてヴォーカリストとしても活躍するようになり、1980年初めまでこのバンドで活動することになります。ちなみにブレックファースト・クラブは、1987年に「ライト・オン・トラック」で全米No.7のヒット曲を生み出しました。

2008年にマドンナは、ロックンロールの殿堂入りを果たした時、その受賞スピーチで、ギルロイ兄弟に最大の賛辞を贈りました。

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マドンナの最初の歌声

1981年のマドンナ。

1980年9月から1981年3月にかけてマドンナは、エミー・アンド・ザ・エミーズというバンドを結成し、リード・ヴォーカルとして活動しました。

1981年2月に、ニューヨークのインディ・ミュージック・シーンを描いたドキュメンタリー映画『In Artificial Light』にマドンナは出演しています。

1981年3月17日、マドンナはバンドに別れを告げ、ゴッサム・レコードとソロ契約を結び、ソロ・デビューすることになりました。しかし、ロック志向のこの会社において、成功の兆しが全く見えない中、1982年初めにマドンナは、契約解除し、遂に、更に大きなサイアー・レコードとの契約に成功し、メジャー・デビューの道へと進むことになるのでした。