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マイ・フェア・レディ

オードリー・ヘプバーン

【マイ・フェア・レディ】オードリー・ヘプバーンの不滅のミュージカル超大作

オードリー・ヘプバーンが『パリの恋人』(1957)以来となるミュージカル映画に挑戦した『マイ・フェア・レディ』は、元々はジュリー・アンドリュースがイライザ役で超ロングラン・ヒットを飛ばしたブロードウェイ・ミュージカルでした。
オードリー・ヘプバーン

『マイ・フェア・レディ』Vol.7|映画の中で登場しなかったオードリーの膨大な衣装

女優として最も輝いている瞬間を残したいという思いが、オードリー・ヘプバーン(1929-1993)に一つの決断をさせました。セシル・ビートンによってデザインされたドレスの中で、劇中で使用されなかったもの全てを写真に撮ってもらうことでした。
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『マイ・フェア・レディ』Vol.6|ジュリー・アンドリュースとオードリーとアカデミー賞

1965年4月5日、アカデミー賞の授賞式が行われました。1964年の話題作は、『マイ・フェア・レディ』一色でした。しかし、時代の新たなミューズは、3月から公開され大ヒットしていた『サウンド・オブ・ミュージック』の主人公であり、『メリー・ポピンズ』の主演を演じたジュリー・アンドリュースでした。
オードリー・ヘプバーン

『マイ・フェア・レディ』Vol.5|ジバンシィがデザインした訳ではない素晴らしいイブニング・ドレス

『マイ・フェア・レディ』の舞踏会のシーンで登場するイブニングドレスは、日本のウエディング雑誌でよく取り上げられるドレスなのですが、よくその中で、〝ジバンシィによる〟という但し書きが書かれています。しかし本作には、ユベール・ド・ジバンシィのデザインによるドレスは、一切登場しません。
オードリー・ヘプバーン

オードリー・ヘプバーンのすべて【1955】第一編|最後のピクシーカット

オードリー・ヘプバーンのすべて【1955】第一編(全五編)(3ページ)All About Audrey Hepburnオードリー・ヘプバーン出演作一覧 1951年 モンテカルロへ行こう 1953年 ローマの休日 1954年 麗しのサブリナ ...
マリリン・モンロー

マリリン・モンロー10 『紳士は金髪がお好き』4(3ページ)

作品名:紳士は金髪がお好き Gentlemen Prefer Blondes (1953)監督:ハワード・ホークス衣装:ウィリアム・トラヴィーラ出演者:マリリン・モンロー/ジェーン・ラッセル/チャールズ・コバーン/トミー・ヌーナン本当はピン...
オードリー・ヘプバーン

『マイ・フェア・レディ』Vol.4|レディにしあがるイライザのアイコニック・ドレス

『マイ・フェア・レディ』のハイライト・シーンであるアスコット競馬場のシーンは、あっと驚く変身を遂げたオードリー・ヘプバーン扮するイライザが登場する最も重要なシーンです。
オードリー・ヘプバーン

『マイ・フェア・レディ』Vol.3|オードリーが自分自身で歌いたかった「踊り明かそう」

『マイ・フェア・レディ』の中で最も有名な劇中歌である「踊り明かそう」。オードリー・ヘプバーン(1929-1993)は、本作に出演するにあたり、全ての歌を自分自身で歌おうと決めていました。そのため映画撮影に入る前から、5週間にわたって、ときには一日5,6時間もレッスンに集中していました。
オードリー・ヘプバーン

『マイ・フェア・レディ』Vol.2|レディに変身する寸前のオードリーとセシル・ビートン

本作の全ての衣装デザインと美術デザインを担当したのが、セシル・ビートン(1904-1980)という後にサーの称号を頂く事になる英国のファッション・フォトグラファーです。彼は188㎝の長身と共に映画俳優顔負けのダンディズムとチャームを兼ね備えていました。
オードリー・ヘプバーン

『マイ・フェア・レディ』Vol.1|オードリーとハリウッドのユベール・ド・ジバンシィ

オードリーからの手紙を受け取り、1963年9月にハリウッドを訪れたジバンシィは、その壮大なる撮影風景を前にして、ただ一言「何ということだ!これだけでコレクションが6回は開けるぞ!」と圧倒されたのでした。
マドンナ

マドンナ伝説17(マドンナ・コンサートのファッション史2)(5ページ)

マドンナ略歴 1958年8月16日 ミシガン州ベイシティで生まれる(6人兄妹の3番目であり長女)。 1977年 ミシガン大学を中退し、35ドルを片手に、グレイハウンドバスでニューヨークへ。 1982年 「エヴリバディ」で歌手デビューを果たす...
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