ジョルジオ・アルマーニとセルジオ・ガレオッティ
ようやく自分の道を定めたとき、私は41歳。普通の人ならとうにキャリアを積んでいる年齢です。それからの私は、夢中で働き、仕事以外の時間を自分に許さないことにしました。
ジョルジオ・アルマーニ 『世界のスターデザイナー43』 堀江瑠璃子
ジョルジオ・アルマーニが、友人のメンズ・ウェアのバイヤーだったセルジオ・ガレオッティと一万ドルづつ出し合い共同で創業したのは、1975年、ジョルジオが41歳の時のことでした(セルジオとは恋人関係にあり、彼は当時30歳だった)。セルジオが経営について全てを引き受けてくれたので、内気でまじめなジョルジオはスタジオに篭り、デザインに専念できました。
そして、サヴィル・ロウのスーツを解体し、スーツを形づくる上で絶対に必要な要素と思われていた芯地やパッドを省いたジャケットを、アンコンストラクテッド・ジャケットとして発表したのでした。
アメリカの小売業者のうち、最初にアルマーニに賭けたのはバーニーズ・ニューヨークでした。オーナーのフレッド・プレスマンがこのよれよれのスーツを発注したのは1976年のことであり、それは大ヒットしたのでした。
セルジオは、1979年に、ガブリエラ・フォルテという広告代理店を経営していた女性をアルマーニ社のパブリシティの責任者に起用します。彼女こそが、『アメリカン・ジゴロ』の衣装をジョルジオが提供するように、裏工作した人でした。さらにセルジオは、当時ハイファッション界で唯一と言えるほどの、高品質の仕立服を工場と呼べる規模で製造し、高級服の大量生産の流れを作り上げたのでした。
こうして、アメリカ進出の流れは作り上げられました。ちなみにアルマーニは、創業年の1975年の売上高は14,000ドルでした。それが翌年には90,000ドルの売り上げを上げ、本作公開後の1981年には、売上高は1億3,500万ドルに達したのでした。
本作の成功後の1982年に、ジョルジオは、クリスチャン・ディオール(1957年)に次いでファッション・デザイナーとして2人目となる『TIME』の表紙を飾ることになりました。
しかし、アメリカ進出は、カルバン・クラインのような狡猾なNYブランドによるコピーを招きました。彼らは、品質の良いアルマーニ風のスーツをコピーし、本物よりも20%は安く売り、荒稼ぎしたのでした。そんな状況に嫌気がさしたジョルジオは、この年の10月の春夏のコレクションを急に取りやめました。そして「私はファッションショーはもう二度と開きません」と宣言したのでした。
1985年8月、セルジオが白血病で亡くなるも、ジョルジオは奮闘し、1988年8月に『アメリカン・ジゴロ』ゆかりの地でもあるロデオ・ドライブにブティックをオープンします。一方、1994年にガブリエラは、カルバン・クライン社の社長として引き抜かれていき、アルマーニ社の社員を大量に引き抜いたのでした。
ジュリアン・ケイのファッション5
オールグレー・スタイル
- ライトグレイのフランネル・スポーツジャケット。スポーティーなヨーク・ディテール。肩パッドはしっかり、一つボタン、シングル、細いノッチラペル
- ライトグレーのシルクシャツ、2つのフラップポケット
- シルクのダークグリーンネクタイ(グレー寄りのグリーン)、ピンドット
- ダークグレーのトラウザー
- 細いグレーのレザーベルト
- ROOTSのグレーのレザーローファー
- アルマーニのサングラスは、1950年代のレイバンのウェイファーラースタイル。鼈甲
- カルティエのタンク・アメリカン
アンコンストラクテッド・ジャケット
本当のことを言うと、私はファッションが分からない人なんです。特にこの作品に出演する前は、高級なスーツをほとんど着たことがなく、Tシャツにジーンズとスニーカーが私の定番でした。でも、そんな私でさえも、彼の作った服がいかに大胆かつ先進的なデザインで、メンズ・ファッションに影響を与えたということはわかります。なぜなら、私自身もアルマーニの衣裳を着たことによって、ファッションに気を使うようになったからです。
リチャード・ギア
このジャケットこそ、ジョルジオ・アルマーニのアンコン革命を象徴するジャケットです。それは肩パッドを取り去り、芯地を少なくして、ソフトで着心地の良い生地を使用したまるでズート・スーツのようなジャケットでした。
ツイードやフランネルの代わりに、ウールクレープやリネンなどの柔らかい生地を使用することでスーツの重量を軽くし、ニットカーディガンのような着やすさと自由なフィット感を実現したのでした。
「生地と身体の間の空気をもデザインした」と称されたこのジャケットが生み出すドレープ感は、男性のファッションに女性的なエレガンスとセクシーさの要素を融合させたものでした。
第二次世界大戦の少し前に、母はたいていグレーを着ていました。彼女の衣服はいつもシンプルだった。そして、決して派手な装いをしなかった。彼女は装飾や人工的な要素を衣服に求めなかった。どこまでも清楚な装いが好きな女性でした。そして、私もそんな母の影響を受け、グレーとベージュの中間色=グレージュが好きになりました。それは穏やかで朗らかな気持ちにさせる色であり、人々の良い部分を引き出してくれる色だと私は考えます。
ジョルジオ・アルマーニ
そして、ジャケットのカラーパレットも、従来のブラックやネイビーといった堅苦しい色合いではなく、グレー、ベージュ、グレージュといったアースカラーがチョイスされました。それはジョルジオ・アルマーニが母親から影響され、愛しているカラーでした。
本作のリチャード・ギアのファッションにも、一切カラフルなものはなく、まるでカメレオンのようにカリフォルニアの風土に馴染んでいました。
ジュリアン・ケイのファッション6
アンコンストラクテッド・ジャケット
- ベージュのリネンのアンコンストラクテッド・ジャケット、ベントレス
- グレーシャツ、両胸にフラップポケット
- ライトグレーのトラウザー
- グレーの細身のレザーベルト
- ROOTSのグレーのカップトゥレザーシューズ
アルマーニが世界の男性の心を掴んだ瞬間。
『タクシー・ドライバー』の主人公トラヴィスは、性欲に対して抑制する強迫観念に駆られていました。一方『アメリカン・ジゴロ』の主人公ジュリアンは性欲が旺盛だ。しかし彼は性的快楽を与えることで自分のアイデンティティを得るが、性的快楽を受けるという概念を持たない男だ。
ポール・シュレイダー
リチャード、つまりジュリアン・ケイが、私の作品で埋め尽くされたクローゼットから何を着るかを選ぶ、ほとんどフェティッシュなシークエンスは、一連の広告よりも印象的で効果的でした。
ジョルジオ・アルマーニ
ジュリアンが、所有するアルマーニ(恐らく全て有閑マダム達に購入させたものだろう)をスタイリングするシーンが始まります。スモーキー・ロビンソンの歌を口ずさみ、コカインを吸引しながら、上半身裸のままで、軽やかにステップを踏んで、自己愛たっぷりにスタイリングするシーンが、当時の男性に与えた影響は計り知れません。
それは、まるで女性が自分のファッションにうっとりするように、男性が自分のスタイリングにうっとりする瞬間でした。そして、鏡の自分に向かってジュリアンは語りかけるのです。それにしても、ポール・シュレイダーという男は、どこまでも鏡が好きな男です。彼が脚本を描いた『タクシー・ドライバー』(1976)においても、鏡に語りかける男(=デ・ニーロ)が登場しました。
コカインを吸引しながら、ジゴロの男性が、愛用するファッションという悪いイメージが付いてしまいかねない状況も恐れずに、ジョルジオ・アルマーニは本作に衣装を提供しました。そして、結果的に、どんな女性も夢中にさせてしまう、セクシーで上昇志向たっぷりの男性が、愛用するファッションというイメージを手にしたのでした。
ちなみにこのシーンの撮影は、数日かけて行われたほど、映画の方向性を左右するシーンだとシュレイダーは考えていました。
作品データ
作品名:アメリカン・ジゴロ American Gigolo (1980)
監督:ポール・シュレイダー
衣装:ジョルジオ・アルマーニ
出演者:リチャード・ギア/ローレン・ハットン/ニーナ・ヴァン・パラント
- 【アメリカン・ジゴロ】アルマーニとリチャード・ギアとローレン・ハットン
- 『アメリカン・ジゴロ』Vol.1|リチャード・ギアとジョルジオ・アルマーニの革命
- 『アメリカン・ジゴロ』Vol.2|リチャード・ギアとアルマーニのアンコン・ジャケット
- 『アメリカン・ジゴロ』Vol.3|カルティエのタンク・アメリカンを愛用するジュリアン・ケイ
- 『アメリカン・ジゴロ』Vol.4|映画がメンズ・ファッションの流行を作る時代のはじまり
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