『ローマの休日』とジバンシィのコート
オードリー・ヘプバーンは、初めてのハリウッド映画に出演した記念に、『ローマの休日』の出演料で、自分への褒美として、ジバンシィのコートを購入しました。この時、オードリーは初めてジバンシィの服に身体を通しました。そして、そのコートが、見せかけだけでなく、着て、生活して初めて分かる感覚、そう、身体を締め付けるのではなく、包み込むような繊細さにすっかり感心しました。彼女は、心の底から、もっとパリのクチュリエが創り出すファッションに身を包みたいと渇望しました。
その渇望が、半年後の1953年夏のオードリーとユベール・ド・ジバンシィの初対面につながるのです。その時、オードリーが1953年春夏(SS)コレクションよりチョイスした3着(ジャージー・スーツ、サブリナ・ドレス、リトル・ブラック・ドレス)が『麗しのサブリナ』で使用され、ジバンシィの名声は更に高まることになりました。
ではまず、二人を結びつけることになった1952年のジバンシィの春夏と秋冬のコレクションを見ていきましょう。この年、ジバンシィはファッション業界に2つの激震を起こしました。それは、「セパレーツ」と「ベッティーナ・ブラウス」によってです。
※スージ・パーカー(1933-2003)。1950年代の人気ファッションモデル。身長約180cm。アメリカ生まれ。1948年モデル・デビュー。1950年、ファッション・フォトグラファー、リチャード・アヴェドンとのパリ撮影旅行でのファッション・フォトが評価され、トップモデルになる。当時のヴォーグにおいてこう記載された。「あのモデルは、いつのまにか着ている衣装よりも目立つようになった」と。1954年に、ココ・シャネルが復活するきっかけを生むモデルとして活躍するが、1963年結婚を期に引退し「もうシャネルを脱ぐことにしました」という名言を残しました。
ユベール・ド・ジバンシィの挑戦
1927年2月21日に貴族の息子として生まれたユベール・ド・ジバンシィは、父親を2歳のとき亡くし、4歳の頃より母親の仕立てたドレスの残りの布で人形の服を作っていました。1937年、10歳の時、母親に連れられたパリ万博エレガンス館でランバン、シャネル、スキャパレリの作品を見て、ファッション・デザイナーになる決意をしました。絵画の勉強をします。1940年6月から1944年6月までナチス・ドイツによりフランスは占領されました。そんな中、17歳より、ユベールは、パリに出て、ジャック・ファットのスタジオで働きました。
やがて、1946年にクリスチャン・ディオールの薦めでリュシアン・ルロンに移ります。そして、ディオールの親友でありファッション・イラストレーターのルネ・グリュオの紹介により、1947年からエルザ・スキャパレリの下で4年間働きます。そこで、ヴァンドーム広場のスキャパレリのブティックを任されます。これこそが、オートクチュール・ブランド初の既製服ショップとなります。1951年、独立を決意し、翌年に行う、春夏のデビュー・コレクションの準備に入りました。
1952年2月2日、25歳を手前にして、オートクチュール・メゾンをパリのアルフレッド・ド・ヴィニー通り8番地に創立しました。そして、ファースト・コレクションを同月に発表します。ジバンシィの1952年春夏コレクションです。ヨーロッパ中の貴族階級を対象にした豪華絢爛なぜいたくなファッションが常識だったオートクチュールの世界に、着まわしのきく『セパレーツ』を発表します。この発想は当時とても斬新で、今ではファッション界で主流になってきている、同じブランドでスタイリングするよりも、ブランド・ミックスをして独自性を出すという、21世紀ファッションの50年先を行ったものでした。