エヴリバディ
Everybody マドンナは7年間の下積み時代を経て、ニューヨーク・シティのナイトクラブ「ダンステリア」等でプレイしていたスターDJマーク・カミンズの協力により、一本のデモテープを作成し、ワーナー・ブラザーズ傘下のサイアー・レコードとの契約(1万5000ドルの契約金)に成功します。
マドンナはこの時期、クラブで夜通し夜通しパーティーを楽しんでいましたが、朝になると音楽プロデューサーに電話をかけたり、曲を書いたりしていました。彼女は翌朝仕事ができなくなるほど夜遊びをすることは絶対になく、常に自分の行動をコントロールしており、それはマドンナのその後のキャリアを通して彼女を特徴づけるものとなりました。
こうしてマドンナは、24才にして遂にデビューを果たすのです。そして、1500ドルで最初のMVが製作されたのでした(当時のマイケル・ジャクソンやデュラン・デュランのMV製作費とは二桁違いました)。
彼女は翌月曜日に来て、デモテープを聴かせてくれた。その曲は特別素晴らしいものではなかったが、私のオフィスに座っている彼女は輝いていた。私は尋ねた。「何を求めているの?」と。私はいつもそう尋ねるのだが、間違った答えは「自分の芸術を世に広めたい」だ。なぜなら、これはビジネスだからだ……するとマドンナはこう答えた。「世界を征服したいの」。その答えを聞いた瞬間、次のステップは彼女と契約を結ぶことだった。
マイケル・ローゼンブラット(サイアー・レコードのA&R=制作ディレクター)
概要


曲名:エヴリバディ
原名:Everybody
リリース:1982年10月
最高順位:全米ダンスチャート第3位
最初からマドンナはマドンナでした!
当時、私はアッパー・ウエスト・サイドの99丁目エリアとリバーサイドの角に住んでいたんだけど、夜7時頃、寝室でラジオをつけてWKTU(ニューヨークのダンスラジオ局)を聴いていたところ、「エブリバディ」が流れてきたの。それで私は「なんてこと!あの箱から出てきたのは私だわ」って思ったわ。本当に素晴らしい気分だった。
マドンナ『ローリング・ストーン』誌のインタビュー、2009年
1983年7月27日にリリースされるマドンナのデビューアルバム『バーニング・アップ(原名:Madonna)』(最高位全米8位、全世界で推定1000万枚を売り上げた)に収録された彼女のデビュー曲として、「エブリバディ」は、1982年10月6日に発売されました。
「踊って、歌って、立ち上がって、自分のスタイルを貫こう!」と歌いあげる、反復的な構成のこのエレクトリック・ダンス・ミュージックは、マドンナ自身が作詞・作曲し、マーク・カミンズによりプロデュースされ、僅か3日間でレコーディングされました。
当初、シングルカバーが示すように、マドンナを登場させず黒人の歌手が歌っているような販売戦略がとられました。しかし、マドンナの猛烈な反対により、彼女自身が友人と共に、MVに出演することになりました。そして1982年のクリスマスまでに、マドンナはポップスターの座に駆け上がりました。
すでにデビュー作から、マドンナは自分自身でスタイリングをしていました(作詞もマドンナ自身です)。後にトレードマークになる「アクセ盛り」を行っています。そして、男性を誘惑する「小悪魔」イメージも、既に漂わせています。
ジャン=ミシェル・バスキアとの短い交際。





『専門家のパネル(A Panel of Experts)』ジャン=ミシェル・バスキア、1982年。当時付き合っていたマドンナに嫉妬して襲い掛かる、バスキアの元彼女とのバトルを描いた作品。
ジャン=ミシェルと出会ったのがアートギャラリーだったかナイトクラブだったかは定かではないけれど、あの頃は区別がつかなかった。彼はまるで映画スターのようなオーラを放っていて、私は彼に夢中だった。
彼は、絵の具の飛び散ったアルマーニのスーツのポケットに、くしゃくしゃになった札束を忍ばせていた。そのお金を持っていることに罪悪感を抱いていた。そして、いつも恵まれない友人たちにそのお金を分け与えていた。私は彼が天才だと思ったのを覚えている。実際に彼は天才だった。でも、彼はそのことにあまり居心地の良さを感じていなかった。
女の子たちはみんな彼に夢中だったのを覚えている。ある夜、彼のロフトの窓から外を見ると、彼に心を砕かれた女の子が、彼の絵を大きな焚き火で燃やしているのが見えた。彼女を止めて絵を救いたかったけれど、彼は気にしていないようだった。彼は「それが運命なんだ」と言った。
彼が午前4時に起き上がり、夢遊病者のように空のキャンバスへと向かうのを覚えている。彼はキャンバスからほんの数センチの距離に立ち、極めて小さな人物像を描き始めた。彼の描くものはあまりにも美しく、知性的で、私は呆気にとられ、ただただ驚嘆しながら見つめていた。
彼は、私が心から羨ましく思った数少ない人物の一人だった。しかし、彼は自分の才能に気づいておらず、常に不安に苛まれていた。彼はヘロインをやめようとしませんでした。彼はよく、音楽の方がより身近で多くの人々に届くから、私を羨ましく思うと言っていた。芸術が一部のエリート層にしか評価されないという考えを、彼は嫌悪していたのだ。
マドンナ(1996年)
マドンナは、ジャン=ミシェル・バスキア(1960-1988)と、共にブレイク寸前だった1982年に短期間(約2ヶ月間)交際していました。それは丁度『バーニング・アップ』を制作中の間でした。アンディ・ウォーホルを介して二人は出会いました。
バスキアは時折マドンナの自室の壁や家具に突発的に絵をかいていました。二人の関係が終わった後もマドンナはそれを大切に残しました。ちなみにバスキアは彼女のために絵を描いていますが、別れた後、それらを取り戻し、すべて黒く塗りつぶしました。
マドンナ・ルック1 デニム・オン・デニム
有名になりたい、っていうのが口癖だった・・・お金持ちになりたい、って言ったことは一度もないわ。・・・昔は無一文だったあたしが今はある程度稼ぐようになったけど、手元に残ってるのは問題だけ。お金がない頃、なんとか生きのびてた頃、人生は単純だったわ。
マドンナ
- デニムジャケット
- 白シャツ
- クラッシュデニムジーンズ、ロールアップ、下に白レースのレギンス
- 白のフラットスリッポン
- ピンク&ブラックベルトやチェーンベルトの重ねづけ
- 耳元に大きめのイヤリング
- フェイクパールネックレス
- 両腕にさまざまな種類のブレスレット重ねづけ(特に左腕に集中してバランスを取る)
- デカラジカセとティアドロップ・サングラス

ラバーブレスレットの「アクセ盛り」です。

褐色の肌のマドンナもすごくステキです。





デニムジャケットのアームを切断してベストのように着ています。


マドンナとデニムの組み合わせは、今では新鮮です。

何気に、ティアドロップのサングラス。

「アクセ盛り」に重要なのは、カラーバランスです。ここではピンクと白のアンサンブルがポイントです。

現代のファッショニスタが心酔するマドンナの「アクセ盛り」。


ニークラッシュデニムパンツの下にレースのスパッツで抜け感を作る。

オシャレの基本姿勢は、ロールアップです。



少年がマイケル・ジャクソンのようなポーズを取っています(プラス、ルーズソックス)。しかし、立ち上がるとマドンナのデニム・オン・デニムのスタイリングの素晴らしさが分かります。

そして、80年代はじめと言えば!デカラジカセです。

1982年真夏、(マドンナの住む)ロウアー・イースト・サイドで撮影。目の前で麻薬取引や売春婦がうろつく中で撮影は行われました。
マドンナの最初の宣材写真






マドンナはこの頃から〝マッスルポーズ〟が好きだった。
1982年にピーター・カミンガムにより、マドンナの最初の宣材写真撮影が行われました。1973年にブルース・スプリングスティーンの最初の宣材写真を撮影した人でした。
スタジオにはなんとマドンナが一人でやって来て、すべてのメイクアップを自分でして、衣装も自前のものでした。ブロンドのハイライトが入ったショートボブのヘアスタイルがとてもクールです。
「エヴリバディ」TV&ライブ映像集
マドンナはこのデビュー曲をとても大切に思っており、1993年の「ザ・ガーリー・ショー」ワールド・ルアーでは、最後の曲としてこの曲を演奏するほどでした。
