小津安二郎に魅了されるフランソワ・トリュフォー
世界的なファッション・アイコンであるフランスの大女優カトリーヌ・ドヌーヴが、人生でもっとも悲しい2日と言ってはばからないのが、姉フランソワーズ・ドルレアックの事故死を知った日と、フランソワ・トリュフォーの死んだ日です。
それほどに偉大なフランスの大監督フランソワ・トリュフォーは、当初小津監督作品に対して下の感情を抱いていました。
小津安二郎の作品は・・・私にはどこがいいのかわからない。いつもテーブルを囲んで無気力な人間たちが座りこんでいるのを、これも無気力なカメラが、無気力にとらえている。映画的な生命の躍動感が全く感じられない。
ところがトリュフォーはやがて以下のように述べるようになりました。
ところが、最近、パリで小津の映画が何本か公開され、『秋日和』とか『東京物語』とか『お茶漬の味』といった作品を連続して見て、たちまちそのえも言われぬ魅力の虜になってしまいました。日本映画は私たちにとっては、単なるエキゾチズム以上に、非常に神秘的な感じがするのですが、小津の作品ほど不思議な魅力にみちた日本映画は見たことがありません。
日本的といえば、これほど日本的な映画もないのでしょうが、それ以上に、私にとって最も不思議なのは、その空間の感覚です。空間と人物の関係、と言ったほうがいいかもしれない。ふたりの人物がむかいあって話しているようなシーンがしょっちゅうあり、キャメラは人物АからВへ、またВからАへとさかんに切り返すわけですが、どうもこれが偽の切り返しというか、切り返し間違いのような印象を与えるのです。・・・ふつう、向かいあって話をするふたりをキャメラが切り返しによってとらえる場合には、原則として同じ目線の軸で交互にとらえる。ところが、小津の映画では目線の軸が一定ではない。つまり、観客は人物のひとりの視線を追っていくと、じつはそこに相手がいないのではないかという不安にかられる。これは単に印象ではなく、そうとしか思えない意図的な演出のはずで・・・
そうこう考えていくうちに小津監督の虜になったトリュフォーなのでした。日本文化のどこに対して異国の人々が、魅力を感じるのかを知ることは、日本の美を知る近道なのです。
ちなみにカトリーヌ・ドヌーヴも50年代の日本映画に魅了されている人です。
(私の心を高揚させるものは)今でもずっと変わらずに映画です。最近、日本の成瀬巳喜男監督の作品を何本かDVDで発見したのよ。ものすごく心がときめいたわ!もう、圧倒されてしまったの。
なんという普遍性、なんという詩情、そして信じられないほどの芸術性の高さ!そこで語られているのは、人間の感情についてなのだけど、それについて登場人物のすべてが生き生きと表現しているの。
これは日本映画としては珍しいことに私は思えるわ。1950年代に製作された成瀬監督の作品を同じ週に3本見たけれど、目のくらむような感動の時間だったわ。
ヴォーグ・ニッポン 2008年3月号 カトリーヌ・ドヌーヴ
滅多に褒めない小津安二郎から見た、原節子の魅力
原節子のよさは内面的な深さのある演技で脚本に提示された役柄の理解力と勘は驚くほど鋭敏です。演技指導の場合も、こっちの気持ちをすぐに受け取ってくれ、すばらしい演技で解答を与えてくれます。単に顔面筋肉を動かす迷優はずいぶん多いけれど彼女のような人は数えるほどしかいません。
演出家の中には彼女の個性をつかみそこね大根だの、何んだのと言う人もいますが、その人にないものを求めること自体間違っているのです。日本の映画界はスターに求めることの余りに大きく多いことが欠点でしょう。国際舞台へ出て恥ずかしくない人というと彼女はたしかに有資格者の一人でしょう。
小津安二郎(1951年)
間宮紀子のファッション5
セーターとフレアスカート
- 真っ白なセーター、後ろにボタン、ロングスリーブ
- フレアスカート
- ショートソックス
ダメだよ、芝居をしちゃ。よろめいて柱にさわるんじゃないんだ。自分の家だから、どこにどんな柱があるかよく知っているんだよ。いつもそこにあるものを何気なくさわりながら歩いてゆく……そういう感じで演るんだよ。
このシーンで小津安二郎が実少年に演出した言葉。
間宮紀子のファッション6
ミリタリー風スカートスーツ
- ストロングショルダー、ワンピーススーツ、ショートカラー、黒ボタン、ロールアップスリーブ、ちょっとだけミリタリー風
- 黒ハイヒールのパンプス
- コットン地の白手袋
- 大きめのクラッチバッグ(おそらくレザー)
田村アヤのファッション5
レースのブラウス
- レースのブラウス、かなり素敵なディテールです。ショートスリーブ
- ロングスカート
- ショートソックス
失われた美に触れる喜びを知る
二人でお茶を飲んで、「それであんた、その話決めちゃったの」って、これだけよ。原さんのお茶碗と私のお茶碗の高さが、これくらい違うのよね。その位置関係が同じくらいのまま、手が降りていく早さが揃っていないといけないんです。お茶碗を置いて、「あんたその話決めちゃったの」って言って、原さんの方を見る。そこも、「それであんた」って言ってから、あまり早く「決めちゃったの」って言って原さんを見ちゃいけない。原さんがお茶碗を置いて、一呼吸したときに、「決めちゃったの」って、こう聞かなきゃいけないのよ。それだけの間のことなのよ。
でも原さんとお茶碗を降ろす動きを合わせてくださいといったことは絶対におっしゃらない。ただ「ダメ」って。「目が早い」次は「手が早い」、次は「手が遅い」そんな感じなの。だからどれがいいのか自分じゃわかんないからね。
「隣を見てください」っていえば、隣を見るだけの芝居になっちゃうでしょ。先生は待ってるわけです。ちょうど思った通りになるように、何遍もNGを積み重ねることによって。
淡島千景
小津安二郎監督の作品は、極めて細かい部分まで、監督の要求する動きが求められます。例えば、アヤ(淡島千景)が、結婚を決めた紀子に、「それでもうあんたその話きめちゃったの?」というシーンがあります。
そこで二人で紅茶を飲むシーンがあるのですが、25回以上のリテイクがあったと言われています。二人がカップを上げるときの調和、バランス、ひじの上がり方。小津監督の映画は全てにおいてリズムなのです。それが日本のリズムなのです。
会話においても、当初は違和感を感じさせる、不自然さを感じさせる独特な言い回しの中から、私たちは、今の時代からは確実に失われた、新しい「自然な会話」を、私達自身がチョイスし、これからの生活に組み込ん栄養素になっていくのです。「おっしゃいますわね、ニンジン女史」「帰れ帰れ、幸福なる種族」などと言った独特な会話のエッセンスは、今の時代にこそ斬新な響きに満ちています。
キャサリン・ヘプバーンのブロマイドを集めていた紀子
「学生時代ヘップバーンが好きで、ブロマイドこんなにあつめてたけど・・・」というセリフがあるのですが、今この作品を見ると、それは間違いなくオードリー・ヘプバーンを連想させます。
しかし、この作品が作られた1951年当時、オードリーはまだ日本には知られていない存在でした。このヘプバーンとは、キャサリン・ヘプバーンのことを指します。そして、彼女は、パンツルックを好む中性的な女性=宝塚的な女性の代表格でした。
元宝塚スターの淡島千景様がこのセリフを言うのが、面白いのですが、それほど紀子は、男性に興味がなさそうだったと言うことを示唆しているセリフなのです。
田村アヤのファッション6
ワンピース
- バイカラーのワンピース。ベルト付き
- 黒のハンドバッグ
- 黒のハイヒールパンプス
最後に…
あのクレーンのシーンは大変でした。何しろワン・ショット撮るのに三日がかりですよ。下が砂なんでクレーンが揺れないように下にいろいろ敷いて足場を固定させといてからやったんですが、(監督の)ご機嫌悪かったですよ。
あれは曇りの日の夕方をねらってたんです。それに、ライティングを使ってます。あすこも、砂浜なんで、遠くの電柱から電気をとりました。夕暮ですから、光線がだんだん落ちてくるんですが、あのときはあまりテストをなさらないんで、ありがたいなと思いました。
厚田雄春
日本人は目を大きく見せたいとか、やれ美白だとか、表面的な部分だけの改良に躍起になっているようだけど、そういうアイデアからは解放されたほうがいいよ。堂々と自身を持って、自分の本来持つものを最大限に見せることが大切なんだから。
ディック・ページ (メイクアップ・アーティスト)
作品データ
作品名:麦秋 (1951)
監督:小津安二郎
衣装:斎藤耐三
出演者:原節子/淡島千景/笠智衆/三宅邦子/杉村春子