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長谷紅

深作欣二

【仁義の墓場】実録ヤクザ映画ファッションの魅力

1970年代後半に一人の映画スターが、当時最悪のモラルを誇る映画を乱発していた東映にやって来ました。かつて日活アクションスターとして活躍したその男の名を渡哲也と申します。そんな彼が、1973年からの『仁義なき戦い』シリーズで「実録ヤクザ映画」ブームを巻き起こした深作欣二監督とタッグを組んだのでした。
深作欣二

『仁義の墓場』Vol.2|渡哲也と堕天使・芹明香

渡哲也(1941-2020)は、はじめての東映での撮影ということで、撮影中は、決して椅子に座らなかったと言われています。その頑なな姿勢が、結果的に、彼自身の健康を蝕んでいくのですが、健康と引き換えに、《ただただ破滅に向かって突き進んでいく》石川力夫という存在を、我が身に乗り移らせることに成功したのでした。
深作欣二

『仁義の墓場』Vol.1|東映流れ者=渡哲也無双

東映仁侠映画のスーパースターだった高倉健は、その時代の流れに乗れず、別の道を模索していました。そんな時代に、同じく俳優として新たなる活躍の場を模索していた30代前半のスターがいました。この男の名を渡哲也(1941-2020)と申します。
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アラン・ドロン

【サムライ】アラン・ドロンとトレンチコートの美学

1960年代のアラン・ドロンは、世界一美しい男と呼ばれていた。そんな黄金期のドロンが、犯罪映画の名匠ジャン=ピエール・メルヴィルと生み出した「男への挽歌」。日本のサムライの生き様を、フランスの暗黒街の殺し屋に当てはめた「殺し屋の美学」映画の元祖です。
アラン・ドロン

『サムライ』Vol.2|アラン・ドロンとチェスターフィールドコート

あくまでもファッションアイテムそれぞれがミニマルであって、スタイルにミニマルという言葉は相応しくない。メルヴィルブルーとアラン・ドロンの青い目と白い肌は見事に調和が取れ、メトロで走るドロンのコートのドレープと、革靴の響きがサムライのダンディズムを昇華させます。
アラン・ドロン

『サムライ』Vol.1|アラン・ドロンとトレンチコート

毎日が死装束。つまりいつ死んでもいいように身だしなみを整える。いいや、死地に向かうときに気持ちを引き締めるためにスタイルを確認する。鏡の前で帽子のつばをまっすぐに直すとき、この男=サムライのスイッチが入るのだ。男の美学。サムライの美学。身だしなみの美学。
セルジュ・ルタンス

【セルジュ ルタンス】フルール ドゥ シトロニエ(クリストファー・シェルドレイク)

2019年5月21日より発売された新ライン「コレクションポリテス」。それは、軽やかで、フレッシュな、透明感溢れるオード・パルファムのコレクションです。そのうちのひとつ「フルール ドゥ シトロニエ」=「レモンの花」は、クリストファー・シェルドレイクにより調香されました。
セルジュ・ルタンス

【セルジュ ルタンス】シェンヌ(樫)(クリストファー・シェルドレイク)

2018年11月にセルジュ・ルタンスより発売された、限られた店舗でのみ販売されている新しいプレミアムコレクション「グラットシエル コレクション」のうちのひとつ。元々は2004年にクリストファー・シェルドレイクにより調香されたものです。
ブロンディ

【デビー ハリー】第十五章 バックファイヤー|エイリアンの恋人

デボラ・ハリーがデビー・ハリー名義で、1981年に発表した初めてのソロ・アルバム『予感』から発表されたファースト・シングル「バックファイヤー」は、『エイリアン』(1979)でアカデミー賞視覚効果賞を受賞したばかりのH・R・ギーガーの協力の下、作られました。
ブロンディ

【ブロンディ】第十四章 誘惑の楽園|ジェダイの騎士デボラ

ブロンディの実質的に最後のアルバムとなったのが『ザ・ハンター』(1982年、全米No.33、全英No.9)でした。そして、そこから2曲がシングル・カットされました。ファースト・シングルの「誘惑の楽園」は、南国のリゾート地を連想させる曲調です。もはやこの時代のデボラ・ハリーのファッションには見るべきものは何一つ御座いません。
ブロンディ

【ブロンディ】第十三章 ラプチュアー|世界初のホワイトラップ

「夢見るNo.1」により、レゲエを自らの音楽に取り入れることに成功したブロンディが、次に目をつけたのは、当時アンダーグラウンドで黒人の間で流行の兆しを見せていたラップでした。そして、生み出されたのが、白人でありながら、史上初めて〝ラップをフューチャリングした曲〟「ラプチュアー」でした。
ブロンディ

【ブロンディ】第十ニ章 夢見るNo.1|革ジャンとミリタリールック

ブロンディを語るとき忘れてはならないのが、この曲「夢見るNo.1 」です。1974年に全米No.1ヒットに輝いたエリック・クラプトンの「アイ・ショット・ザ・シェリフ」が、史上初めての全米No.1レゲエだとしたら、この曲に続く快挙をブロンディが成し遂げたことになります。
ブロンディ

【ブロンディ】第十一章 銀河のアトミック|金髪核弾頭投下

ヴィクトリア・ベッカムのようなアンドロイド・ビューティー・メイク(口紅はトレードマークの赤ではない)を施したデボラ・ハリーが恍惚の表情で歌う「銀河のアトミック」。オープニングの宇崎竜童チックな弾丸スタートからして硬派なロックかと思いきや......
ブロンディ

【ブロンディ】第八章 ドリーミン|カットアウトロンパース

「ドリーミン」のPVの中でデボラが着ているエメラルドブルーのカットアウトロンパーズは、スティーブン・スプラウスがデザインしたものでした。同色のタイツとヘッドバンドの組み合わせが、一見するととてつもなくダサく、時が経過するにつれてなんか「かわいいね」という不思議な共感を呼び覚ましてくれます。
ブロンディ

【ブロンディ】第七章 サンデー・ガール|トムボーイ・ルック

デボラ・ハリーが当時飼っていた猫の名をサンデーと申します。そんな愛猫について歌う曲「サンデー・ガール」は、1979年5月に発売され、イギリスにおいてNo.1ヒットとなりました。PVにおいてデボラが着ているトムボーイ風メンズスーツ・ルックがとてつもなくクールです。
ブロンディ

【ブロンディ】第五章 ハンギング・オン・ザ・テレフォン|リアル・ギズモ

全く売れなかったパワーポップバンド・ナーヴスの1976年の同名曲をカバーしたこの曲は、ブロンディのニューウェイブバンドとしての実力を見るのにうってつけです。とにかく、もう、デボラ・ハリーの表情がすごい事になってます。特に「テ~レフォ~ン」とシャウトするチカラの入り方が、もう惚れ惚れするくらい男前です。
ブロンディ

【ブロンディ】第四章 恋のピクチャー|ディスコ・ドレスと元祖ボディコン

ブロンディの3枚目のアルバム『恋の平行線』(1978)から、ファースト・シングルとして発売されました。デボラ・ハリー自身が作詞したこの曲は、ニューウェイブを代表するラブソングとして高評価を得ました。プロデューサーは、マイク・チャップマン。彼の手腕によりブロンディは、世界規模のセックス・シンボルへと昇華していくのでした。
ブロンディ

【ブロンディ】第二章 愛してほしい|デボラ・ハリーのベレー帽

1978年の「デニスに夢中」に遡ること1年前(1977年)に、オーストラリアにおいて、No.2ヒットを生み出していたのでした。そして、この時のデボラ・ハリーのベレー帽スタイルが、後のポップスターに対して大いなる影響を与えることになるのでした。そうです、彼女こそ、女性のロックシンガーとして世界ではじめてベレー帽を取り入れた人でした。
ブロンディ

【ブロンディ】第三章 デニスに夢中|ダサいボーダー水着とレッドブーツ

デボラ・ハリーが率いるブロンディの最初のヒット曲(1978年全英No.2ヒット)。この曲から「ブロンディ伝説」が始まりました。この曲のPVでデボラが着ている1950年代風の赤白ボーダーのワンピース水着と、その上からディナージャケットを軽く羽織る姿は、とんでもなくチープなのか、とんでもなくスゴいのか判断しかねる謎のムードに満ち溢れています。
ブロンディ

【ブロンディ】第一章 デボラ・ハリーという女

デボラ・ハリー(1945年7月1日-)は、プラチナのように光り輝くブロンドヘアと、キスしたくなるような妖艶な薄い上唇、そして、退廃的なマレーネ・ディートリッヒのような頬骨により、1970年代後半に彗星の如く現れ、1980年代前半にかけて、マドンナ前夜のミュージック・シーンにおけるファッション・アイコンとして君臨しました。
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