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原節子

『麦秋』Vol.1|16才の原節子様の、1937年の世界一周の旅

原節子
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原節子様とヨーゼフ・ゲッベルス

下の一枚の写真は、1937年にベルリンの日本大使館で撮影された写真です。二人の外国人と一人の貴族的な日本人男性の間に、とても小顔の和服美人の姿を認めることが出来ます。当時、16歳の若き日の原節子様(1920-2015)です。後の代表作で見る節子様は、顔が小さくないという印象が強いのですが、この写真を見ているととても小さいです。

『新しき土(ドイツ題は「サムライの娘」)』(1937年)ナチス・ドイツとの合作映画に主演し、ドイツに招待された16才の原節子様。隣はヨーゼフ・ゲッベルス。

1937年にこの写真が撮影された時、ドイツはナチス・ドイツ=第三帝国時代でした。節子様の隣に立っているのは、アドルフ・ヒトラーの右腕であり、第三帝国の宣伝大臣・ヨーゼフ・ゲッベルスです(この写真撮影の8年後に自殺した)。

そのゲッベルスの隣に立ってよそ見してしまっている女性は、ルート・エヴェラー(1913-1947)というドイツの女優です。彼女の兄は、ナチス親衛隊の少佐でした。彼女はナチス・ドイツ時代に、ゲッベルスに愛され、スターとなるのですが、第三帝国崩壊後の1947年、極貧の中、死去しました。肺炎とも自殺とも言われていますが、真実はわかりません。

この一枚の写真が撮影される少し前の1936年11月に日独防共協定が締結されました。そして、その少し前に、日独合作映画が企画され、ジョセフ・フォン・スタンバーグの盟友でありドイツ映画界の重鎮であるアーノルド・ファンク監督により、『新しき土』(ドイツ題:『サムライの娘』)が日本で撮影されました。

1936年2月からほぼ一年かけ、富士山、阿蘇山、瀬戸内海、東京、京都、奈良、神戸、宮島、松島、福井、琵琶湖などの日本全国縦断ロケ撮影が行われ、ヒロインとして選ばれた節子様はその2/3に参加したのでした。ルート・エヴェラーもこの作品のドイツ側の主役として出演していました。

ハリウッド・スター、早川雪洲をはじめ、山田耕筰円谷英二も参加したこの作品は、1937年2月4日に、まず日本で先行公開され、大ヒットしました。

そして3月のドイツ公開に併せて、節子様は第三帝国のドイツに招かれることになったのでした。

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マレーネ・ディートリッヒと会った原節子様

1937年3月26日、ベルリンに到着した原節子様。

原節子様が、日本人離れしたスケール感を漂わせるきっかけとなった、16才の女性による奇跡のような世界一周の旅は、1937年3月10日午後21時30分に東京駅からはじまりました。振袖から浴衣まで20着の着物を八個のトランクに収めながら言い放つ、出発前の節子様のお言葉がとても興味深いです。

あちらでは成るたけ和服で通したいと思いますの。キモノが一番日本人の美を表現するものだと思われます。

『新しい土』が大ヒットし、東京駅構内にまでファンが詰めかけ、暴徒化寸前の中、夜汽車は下関へと出発しました。その後、下関港からウスリー丸で満州国の大連に渡り、15日には奉天で、後にシベリヤで戦病死する長兄と永久の別れを交わすのでした。

そして、シベリヤ鉄道でモスクワを24日に経由し、東京を出発して16日目にあたる26日午前7時43分にベルリンに到着しました。ベルリンに到着した時、節子様が選んだ服装は、黄色の着物でした。

同行して着付けの手伝いもした『日本映画の母』川喜多かしこは、ベルリンで舞台挨拶する節子様について「今日は赤の総絞りの振袖を着せる。うっとりする程美しい。こんなに飽きの来ない深味のある美しさを持った人は日本人では少ないと思う」と日記に記していました。

ピカソの『ゲルニカ』が出展された、パリ万国博覧会が開催される寸前の5月21日にパリに入り、ジュリアン・デュヴィヴィエやルイ・ジューヴェ、アナベラ、ジャン=ルイ・バローとも会いました。そして6月17日、ヨーロッパの地をあとにし、豪華客船クイーン・メリー号の船上で17歳の誕生日を迎えるのでした。

『新しき土』の撮影中、極秘来日したジョセフ・フォン・スタンバーグ監督と原節子。(1936年8月、軽井沢にて)

6月21日ニューヨーク入り、そして、ハリウッドへと移動し、7月10日にジョセフ・フォン・スタンバーグと共に、マレーネ・ディートリッヒに会いました。

一緒に御飯を食べましたが、彼女は映画で見るような特殊な感じはなく、顔も凹凸ではないし、まして妖婦的なところもありませんし、開放的な親しみ易い感じでした。

節子様は、憧れのゲイリー・クーパーの楽屋に行く勇気はなく、ケーリー・グラントとタイロン・パワーとは会いました。最後に、ハワイに寄り、7月28日、日本郵船の竜田丸で139日間の世界一周の旅から帰ってきたのでした(7月7日、盧溝橋事件が起き、日中戦争がはじまることになります)。

海の上から遥かに眺めた日本は、ぼーッとかすみがかかったような感じがして、緑が多いせいか余計に神秘的に見え、たしかにどこの国よりも綺麗!

1937年に、僅か16歳でナチス・ドイツを訪れた原節子様は何を見たのでしょうか?他に日本人の女優で第三帝国を訪れた人はいたのでしょうか?この139日間が、原節子様に〝不滅の存在〟になることを運命づけたと言っても過言ではないでしょう。

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ドストエフスキー×黒澤明の『白痴』の大失敗の果てに…

50年代の映画で、品のある女性が身に着けていた万国共通のファッション・アイテムは、白手袋でした。

原節子様には、時代を超越した何かがあります。まさに古さと新しさを同時に感じさせる人です。

本編に登場しないハンドバッグを持つ原節子様。

大和から来た間宮茂吉を演じるのは、『七人の侍』や『ゴジラ』などの名脇役・高堂国典。

佐野周二、原節子、淡島千景。スーツにボーダーソックス。何よりもかわいい体育座りにファンタジーを感じます。

1949年に『晩春』で小津安二郎監督の作品にはじめて出演した原節子様が、以後出演する2作品『麦秋』と『東京物語』の役名が紀子であることから「紀子三部作」と呼ばれています。とても興味深いのは、『晩春』と『麦秋』の間に、黒澤明監督作品で、三船敏郎との初共演となる、ドストエフスキーの小説を原作とした『白痴』(1951)に出演していることです。

ドストエフスキーとトルストイを愛読し、当時『戦争と平和』の二回目を読み切ったばかりの原節子様にとって、『羅生門』に次ぐ黒澤明の野心作に出演し、国際的な映画賞を受賞してやろうという意気込みでこの作品に取り組みました。しかし、残念ながら大失敗作となりました。

そして、その後に出演したのが、本作だったのでした(一方、黒澤明は『生きる』と『七人の侍』で天皇となる)。この作品の原節子様の美しさの中には、女優としての強い意志が感じられる瞬間があります。

日本映画そのものに、ハッキリとしたつらぬくような個性がないんですもの。そして世界観が乏しい。リアリズムも底が衝けないか、或いは詩がないのよ。

『近代映画』1951年7月号

この作品は、間違いなく、139日間かけて世界一周した原節子様が、30代に突入し、自分の信じる道を、信じるパートナーと共に、一目散に走っているそんな美しさを感じさせる作品と言えます。

『麦秋』の紀子が、特に日本人女性にとって〝不滅の輝き〟に包まれているのはそのためなのです。イギリス民謡・埴生の宿のオルゴールに合わせてはじまる、古き良き日本のゆったりした空気と共に、ひとりひとりの登場人物が機械仕掛けの人形のように心地よいリズムで動いていく、幻想的なムードからこの物語ははじまります。

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間宮紀子のファッション1

戦後のキャリアウーマン・ルック
  • ワンピースのスカートスーツ、ドッグイヤーカラー、フロントジップ、ジップがS、7分袖をロールアップ
  • 黒いハイヒールパンプス
  • コットン地の白手袋
  • 大きめのクラッチバッグ(おそらくレザー)

原節子様の身長は163㎝~165㎝ありました。

北鎌倉駅から丸の内に通勤する紀子。

男たちは皆フェルト帽をかぶっています。

とても上品に腕時計をつけておられます。オフィスは丸ビルにあります。

ジップが何気に「S」なのです。

庶民的な食卓と高級な料亭を行き来する物語。しかし、肝心の料理が、画面上に示されることがないというローアングルの美学。

佐野周二(関口宏の父)のピンストライプのタイが素敵です。ちなみに小津安二郎監督に気に入られていた彼は、その分、沢山NGを出されていたとのこと。

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淡島千景様と『リボンの騎士』

少女クラブ版「リボンの騎士」©TEZUKA PRODUCTIONS

宝塚時代の淡島千景様。

本作で紀子の大親友のアヤとして登場する淡島千景様。

GHQ占領時代の宝塚歌劇団の二大娘役スターは、雪組の乙羽信子と月組の淡島千景(1924-2012)でした。伝統的な娘役に求められた「優しさ、柔らかさ、甘さ」とは真逆の「薔薇の花のとげのような冷たさと鋭さ」を武器に、花組の越路吹雪といったスターを向こうに回し、宝塚のトップオブトップ的な地位に君臨しました。

そんな彼女の大ファンであった手塚治虫は『リボンの騎士』について「ぼくね、淡島千景の大ファンなんです。淡島千景というのは大体女役なんだけど、一度だけ男役(1948年の『ヴェネチア物語』のポーシャ姫)をやったんです。それがとても魅力的で、男になったり女になったりするのが面白いんじゃないかな、とサファイヤを考えたんです」と語っていました。

ちなみにサファイヤから「星の入った大きな瞳」という少女漫画スタイルは定着してゆきました。

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田村アヤのファッション1

着物
  • 颯爽とした格子柄のキモノ
  • クラッチバッグ

淡島千景のトレードマーク、プードルヘアー

「よう!来たな!借金取り」と佐竹に呼ばれるアヤちゃん。

着物姿で歩く姿がとても美しいです。

作品データ

作品名:麦秋 (1951)
監督:小津安二郎
衣装:斎藤耐三
出演者:原節子/淡島千景/笠智衆/三宅邦子/杉村春子/佐野周二