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山口小夜子/美人香水100選 第一夜

美人香水100選
©Shiseido
美人香水100選
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カメラを向けられると泣いていた女の子がそこにいました

七五三の山口小夜子様。

あのね、私は、前髪を上げると完全な、本当の素顔なの。子供のころから、すーっとまっすぐに前髪をおろしてるから、これを上げちゃうと、もう裸で歩いてる感じになっちゃうの。

人見知りしてカメラを向けられると泣いていた女の子がこういう仕事をしているのも、謎なの。だけど、謎だけど、裏返しなんじゃないかと思う。隠れたいと思いながら見られたいと思う気持ちがあるの。

山口小夜子

山口小夜子様は、日本が第二次世界大戦に敗北した4年後の1949年9月19日に横浜で生まれました。当時の日本は、GHQの占領下にあり、横浜は日本占領の本拠地でした。そのため横浜は別名『米軍の街』と呼ばれるほど、アメリカ文化で溢れ返っていました。

そんな中、少女時代を過ごした小夜子様は、『セブンティーン』『エル』などの雑誌を見て、気に入った洋服を選んでは裁縫が得意な母に縫ってもらい、同級生に「その服を脱がない限り、遊んであげない」といわれても、「私は、仲良くしてもらうより、自分の好きな服を着ていたほうがいい」と断り、自分の感性に忠実に生きていたのでした。

私ってよく考えてみるとずっと仮縫いのモデルをしているのね。子供のころは母の仮縫い、杉野学園ドレスメーカー女学院のころは先生の仮縫い、そして今はデザイナーの仮縫い。未完成の服を身に着けてデザイナーの前に立つとき、私の心は、子供のころ母の前にいたときに引き戻されます。目の前でどんどん形作られていく服への期待で胸がいっぱいになります。

山口小夜子

小夜子様は、森英恵も卒業した杉野学園ドレスメーカー女学院に通い、ファッションデザイナーになるための基礎を学びました。

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日本人の女性に自信を与える存在になる

山口小夜子様と山本寛斎

落ちたらやめようと決意していたの。でも、通った。その時からずうっと今日までおかっぱ――ファッションは文明の本質から生まれてくるものだと考えたい。民族性にとらわれることはないけれど、少なくと「まわりからどう思われているか」などという観点だけで決めることはない。

山口小夜子

しかし、ファッションをデザインする側でなく、着る側としてファッション・モデルとしての活動に興味を持つようになります。西欧の女性に対する憧れがピークに達していた時代に、小夜子様は、当時求められていた西洋風のヘアメイクでオーディションを受けることを良しとせず、純和風な自分に一番ピタリと合うスタイル(母親に切ってもらったおかっぱボブ)でオーディションに臨みつづけたのでした。

そして、1971年に日本人として初めて、ロンドンでファッションショーを開催した山本寛斎(1944-2020)との出会いにより、同年ファッション・モデルとしてランウェイを歩く夢を実現したのでした。

1972年にはパリコレのランウェイを歩き、その瞬間、ファッションの美の規範を変えたのでした。それは日本人形のような〝黒髪のおかっぱボブ〟と〝アーモンド・アイズ=切れ長の目〟が生み出すエキゾチックなオーラにより、一瞬にして世界中の人々を魅了したのでした。

そして、日本中の女性たちに、自信を与えたのでした。

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〝日本の美〟を〝世界の憧れ〟にした資生堂との共同作業

©Shiseido

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モデルという職業柄、私たちはいつでも、どんな場合でも、美しくあることを要求されます。それは美しく動くことであったり、美しく静止していることであったりします。

私たちが要求される美しさとは、感じる心、それを表現する力、そのための動きなども含まれているわけです。

美しいしぐさとは、その人をとりまく環境に合った自然な動作であり、その人の個性のにじみ出た動きだと私は考えます。

山口小夜子

一方、日本という枠から本格的に羽ばたこうとしていた資生堂にとって、1973年から1986年まで専属モデルとして契約した山口小夜子様とのタッグは(のちにセルジュ・ルタンスも加わり)、奇跡のような化学反応を生み出しました。のちに資生堂社長になる福原義春氏はこう述べています。

「それまでのモデルとはまったく違う、神秘的で、不可解なところのある美しさは、ローカルな日本から抜け出ようとしている資生堂にとってかけがえのない存在でした。この人は何者なのか、何を考えているのか、何人なのか、さっぱり分からない。しかし、たとえようのない存在感がある。」

もうこの言葉が、小夜子様の存在感のすべてを端的に伝えてくれていると思います。「小夜子さんは、大変理知的な人だったと思います。黙って周りの話を聞いて吸収し、あらゆることを考えていて、でも口には出さずに、次の自己表現に生かしていくのでした」

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日本人女性にとって〝永遠に不滅の存在〟

1977年には、雑誌『ニューズウィーク』の「世界のトップモデル6人」に選ばれたこの年、アメリカのロックバンド、スティーリー・ダンの6作目のアルバム『彩(エイジャ)』のカバーモデルをつとめました。このアルバムは全米3位、200万枚を売り上げる大ヒットとなりました(特に、「ディーコン・ブルース」「ペグ」はかなりムーディーで素敵です)。

1984年には、小夜子様は、毎日ファッション大賞で特別賞を受賞しました。それは〝世界に向けて日本人女性が自分の美しさにもっと自信を持てるようにした〟功績に対してでした。何よりも重要なのは、欧米人のような見た目によってではなく、現在の冨永愛様にも通じる日本人女性の持ちうるすべての美学を〝ファッションという一点に集約させた〟ことでした。

セルジュ・ルタンスと山口小夜子様 ©Shiseido


2007年8月14日、小夜子様は、集大成とも言える主演映画を共同監督する大きな航海に乗り出すことが決まっていた矢先に、急性肺炎のため突然世を去ることになりました。まだ57歳の若さでした。

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小夜子様の美人香水

©Shiseido

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第一章 日本人形にいのちが吹き込まれる瞬間。


ホワイト ストレージ(トバリ)

第ニ章 紫式部の『源氏物語』の〝すずろに悲し〟より。


すずろ(資生堂)

第三章 1964年、東京オリンピックの年に発売された『ZEN』


ZEN 禅(資生堂)

第四章 『錦』と共に、山口小夜子様は、資生堂に現れた。


(資生堂)

第五章 君、徒(いたづら)に沙棗の香りを身にまとうこと勿れ。


沙棗(SASO)(資生堂)