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ジバンシィの歴史
- 1952年 ユベール・ド・ジバンシィが創立。
- 1954年 『麗しのサブリナ』の衣装に一部協力。以後オードリー・ヘプバーンのために『パリの恋人』(1957年)『ティファニーで朝食を』(1961年)『シャレード』(1963年)『おしゃれ泥棒』(1966年)等の衣装を担当する。オードリーはジバンシィのミューズとなる。
ジバンシィを着るジャクリーン・ケネディ
ユベールへのオードリーの友情の証として
1954年アカデミー衣装デザイン賞(白黒部門)において、『麗しのサブリナ』が受賞した。しかし、イーディス・ヘッドのみがクレジットされていたので、彼女だけの受賞となった。勿論、ユベール・ド・ジバンシィは、大いに失望したことは言うまでもない。そして、彼と同じくらい失望していたのが、オードリー・ヘプバーンだった。
オードリーは、ユベールに謝罪し、『麗しのサブリナ』の3つのジバンシィの衣装を、ヨーロッパのプレミアでフルに着用し、ジバンシィのPRを行った。そして、ジバンシィが参加したアムステルダムのチャリティ・ファッション・ショーにも、オードリーはスペシャル・ゲストとして参加したのだった。以後、2人は、約40年に渡る友情を育むことになる。
ユベールは、21世紀に入り、「もはや最近のファッションには、心がこもっていない」という発言をしています。そして、デザイナーが短期で、色々なデザインを乱発する風潮に対して、「ゆっくりと愛される服を作っていくべきだ」と苦言を呈しています。1988年LVMH社(モエ・ヘネシー・ルイ・ヴィトン)に、オートクチュール部門を買収され、創作活動に専念したが、「価値観が違いすぎる」と1995年にユベールは引退しました。
1954年、ヨーロッパのみならず、日本、アメリカを含む世界規模でのサブリナ旋風が吹き荒れ、オードリー・ヘプバーン=洗練されたパリジェンヌというイメージが定着しました。ジバンシィのクールシックなファッションと、イーディス・ヘッドのアンドロギュヌス・スタイルのファッションとのバランスの絶妙さが、1954年という一年をファッション史に残る一年にしました。この一年で、世界中の女性は髪の毛をショートカットにし、パンツスタイルに親しむようになり、フラットシューズを愛用し、カジュアルとモードのギャップを自分の中に見出すファッションの喜びを理解したのでした。
ルック1:カクテル・ドレス。
ダーク・グリーン・ヴェルベット。ショート・スリーブでキモノスタイル。金と銅のシルクの糸とメタルプレートとクリスタル、スパンコールの刺繍入り。1954/55AW。ブレスレットは、ジバンシィがスワロフスキーに発注したもの。黒のカーフレザーの手袋はジバンシィ。ブラック・サテンの靴はレネ・マンシーニの1953年SS(ジバンシィのコレクションのためのもの)
ルック2:イブニング・ガウン。
白のフレンチ・レース。パネルスカート。裏地はシルク。1954/55年AW。靴はレネ・マンシーニ。1954/55年AW。
ルック3:オレンジ&ホワイト・カクテルドレス。
シルク。サイド・パネル。大きいボウをヒップに。1954/55AW。靴はブラックシルク。レネ・マンシーニ(フォー・ジバンシィ)。1954/55年AW。