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【デビー・ハリー】第十六章 フレンチ・キッス・イン・ザ・USA|ヴィデオドローム

ブロンディ
ブロンディ
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フレンチ・キッス・イン・ザ・USA

French Kissin 恋人でありブロンディの盟友クリス・スタインが重病になり、その看病のため、1982年に活動を中止(ブロンディは解散)していたデビー・ハリーが、1986年にセカンド・アルバム『ロックバード』で復活を遂げました。そのファースト・シングルとして発売されたのがこの曲でした。

概要

曲名:フレンチ・キッス・イン・ザ・USA
原名:French Kissin
リリース:1986年
最高順位:全英8位、全豪4位

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MTV向きではないデボラ・ハリー

惜しむべくは、この時代以降、デボラ・ハリーは大人の女性に対して、ファッション・センスの円熟味を示すポジションに立てなかったことです。

この曲は、ファッションの本質である「薄っぺらさ」について歌っているのですが、PVにおいて、肝心のデボラ自身の魅力が全く出し切れていませんでした。ここがマドンナとその先駆者のデボラの違いなのでしょう。デボラ・ハリーはPVの中で表現する人ではなく、ライブで輝く人なのです。

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1981年に、デボラが撮影に参加した『ヴィデオドローム』

デボラ・ハリーは念願が叶い、1981年の晩秋からメジャー映画にはじめて女優として参加することになりました。デヴィッド・クローネンバーグ監督の『ヴィデオドローム』です。その主役のニッキー・ブランド役を演じるため、トロントで2ヶ月間の撮影に参加しました。

彼女は、1970年代後半から女優の仕事に興味を持っていました。そしてハリウッド中を駆け回り、『ブレードランナー』(ダリル・ハンナが演じた役)や『トロン』、『レイジング・ブル』など沢山のオーディションを受けていました。

ちなみにはじめて彼女が映画で主演したのは、1980年に公開された『Union City』というクライム・ミステリー映画ででした。この作品のデボラの演技が気に入り、クローネンバーグは『ヴィデオドローム』の主演に抜擢しました。

デボラ・ハリーの一存により、トレードマークであるブロンドヘアを捨て、赤褐色に染めました(クローネンバーグは、当初ブロンドヘアで撮影したいと考えていた)。

監督が結末を決めずに撮影が行われたこの作品の中で、もうひとりの主役であるジェームズ・ウッズとの相性も抜群で、撮影中、ずっと笑いが絶えませんでした。

1983年に公開されるも、興行成績自体は散々たるものでした。しかしアンディ・ウォーホルは本作に対して「 1980年代の『時計じかけのオレンジ』だ」と大絶賛し、ビデオ時代において、カルト的な人気を誇り、今に至ります。

シルクのレッドシャツスーツがとてもクールビューティーでファムファタールでした。

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ヴォーグが生みだしたデボラ・ワールド

ここで、ファッション誌が、デボラ・ハリーからインスパイアされた世界観を、有名モデルを通してどのように創造していったのかを見てゆきましょう。

2009年ヴォーグ・パリ9月号。モデルはラケル・ジマーマン(1983-)。当時のジゼル・ブンチェンを筆頭とするブラジリアン・モデル旋風の時代を反映しています。1986年生まれのアラスデア・マクレランがフォトグラファーをつとめています。

以下、上が、ヴォーグ、下がデボラ・ハリーの着想元の写真となります。

【ブロンディ伝説】デボラ・ハリーのファッション史