第一章 デボラ・ハリーという女
Debbie Harry デボラ・ハリー(1945年7月1日-)は、プラチナのように光り輝くブロンドヘアと、キスしたくなるような妖艶な薄い上唇、そして、退廃的なマレーネ・ディートリッヒのような頬骨とミステリアスなスモーキーアイにより、1970年代後半に彗星の如く現れ、1980年代前半にかけて、マドンナ前夜のミュージック・シーンにおけるファッション・アイコンとして君臨しました。
マドンナはもちろんのこと1980年代の女性ポップスターに多大なる影響を与え、21世紀においても尚、レディー・ガガ、テイラー・スウィフト、マイリー・サイラスをはじめとする女性ポップスターに大きな影響を与え、崇拝されています。そんなデボラ・ハリーの生い立ちを振り返りながら、時代を越えたファッション・アイコンのタイムレスな魅力について探っていきましょう。
デボラ・ハリーとクリッシー・ハインド(プリテンダーズ)にはすごく刺激を受けたわ。二人とも女性で、バンドの中心人物だったでしょ。詞を書いていたのは明らかに彼女たちだし、ふたりとも強烈なイメージを持ってたからすごく勇気づけられたの。
マドンナ
私はガービッジの大ファンなんです。中学生の頃は、ブロンディのアルバムとガービッジのアルバムをローテーションで聴いていました。母に一人で1ブロック以上歩くのを許されなかったので、ディスクマンに入れて近所を一周するのが日課でした(ガガは大富豪のお嬢様である)。
レディー・ガガ

デボラ・ハリーの魅力。それはグレムリンに似たルックスにあります。
両親から捨てられた悲しい生い立ち

1950年代の少女時代のデボラ・ハリー。
デボラ・ハリーは、有名になった後、私立探偵を雇い、実の両親を探したらしい。彼女は、自分を捨てた両親であっても、もし苦労していたら手を差し伸べたいと願っていたのでした。
1945年7月1日にデボラは、フロリダ州マイアミで生まれました。そして、僅か3ヵ月後、両親は育児放棄し、彼女はニュージャージー州ホーソンでギフトショップを経営する夫婦に養女に出されました。
経済的には恵まれていませんでしたが、二人にとって念願の子供として、たっぷり愛情を注がれ育ちました。そして、4歳のときに、養女であることを教えられたデボラは、少女時代から「私の本当のお母さんはマリリン・モンローかもしれない」と妄想するようになりました。
デボラ・ハリーという女性が、どこかマリリン・モンローに似ているのは、この不幸な生い立ちに寄るものなのかもしれません。
14歳で髪の色をブロンドにする


彼女の本当の髪の色は、ブロンドではなく赤毛でした。思春期になるまでのデボラは、自宅に隣接する森の中で、「赤毛のアン」のように遊ぶ、おてんば娘でした。
そんな彼女が、ブロンドヘアになったきっかけは、レコードデビューするときに、アドバイスを受けてというわけではなく、まだ14歳の時に自分の意思によってでした。
ホーソンの市営プールで憧れの年上の少女が、マリリン・モンローのようなブロンドヘアに脱色したのを見て、「どうしたらこんなに綺麗なブロンドになれるのかしら?」と質問したところ、彼女の母親が美容師で、自宅で髪をブロンドヘアに変える方法を教えてくれたのでした。
そして、デボラもブロンドヘアにして、メイクアップをし、学校でも「高校一の美少女」に選ばれ、自分の魅力に目覚めるようになったのでした。
デボラ・ハリーの最初のバンド

バレエの練習に励みながらも、マーチングバンド部に所属していた高校時代のデボラ。

1963年、ホーソン高校の卒業アルバムより。



ウィンド イン ザ ウィローズ、1966年。
あのアルバムは本当にかなり酷いものでした。私はバンドのビジネスやクリエイティブには全く関わっていなかった。ただの歌手、バックコーラスだった。
2枚目のアルバムはリリースされなかった。2枚目の方がずっと良かったと思う。もっとロックンロールで、もっと…もっとアップテンポで、当時とても人気だったママス&パパスのようなサウンドだったから、何かできたかもしれない。
デボラ・ハリー
1963年に高校を卒業し、センテナリー・カレッジーに進み、1965年に卒業した後、20歳で、単身ニューヨークに出たデボラは、有名なロックスターが出演するマックス・カンザスシティでウエイトレスとして働くようになりました。
1966年にサイケデリック・フォーク・バンド「ウィンド イン ザ ウィローズ(Wind in the Willows)」のヴォーカルとして音楽活動に初めて参加しました。1968年にデビュー・アルバムを発表するもアルバムチャートの195位にしか到達出来ず、1969年に解散しました(2枚目のアルバムも完成していたが世に出ず)。
ウッドストックにデボラもいた!

ウッドストックに行った頃のデボラ。

上の写真は、1969年8月15日から17日にかけて行われたウッドストック・フェスティバルに出かけた時の写真です。ラブアンドピース・モチーフのネックレスをはじめ、ペイズリー柄のファッションとストレートのロングヘアーといいこの時代の雰囲気そのもののデボラがとても新鮮です。
プレイボーイのバニーガールと連続殺人鬼テッド・バンディ


1968年から1973年までの間の約9ヶ月間、デボラは、ニューヨークのプレイボーイ・クラブでバニーガールとして働いていました。
そして1972年には、パーティ帰りの夜中のニューヨークのイーストビレッジで、IQ160の連続殺人鬼テッド・バンディの車に拾われ、危うく殺されかけた経験があります(あくまでも本人談)。車に乗って、ウインドウのレバーもドアハンドルもついてない事を知り、窓の隙間に腕を突っ込み、外からドアを開け、疾走する車から飛び落ち、脱出したとのこと。
1974年、スティレットーズ結成



私はただ神経質な人間で、いつも時間通りに、あるいはいつも早めに、もしくはほぼ時間通りに着くタイプなんです。
デボラ・ハリー
そして、1973年に、クリス・スタイン(のちのブロンディにおける相棒)と出会い、デボラは音楽活動に専念することを決意したのでした。1974年、2人の女性とともに、「スティレットーズ」を結成し、そこにクリスが合流し、ブロンディの原型は出来上がります。
しかし、同棲するようになった二人に悲劇が訪れます。1974年に、ニューヨークのアパートの前で、黒人にナイフを突きつけられ、縛られ、デボラはレイプされ、さらにクリスは愛用のギターを奪われたのでした。
「あの時、恋人の前でレイプされたことよりも、ギターを奪われたことが、何よりも辛かった」と回想するデボラ。当時裕福ではなかった二人にとってギターを奪われることは、グループとしての死活問題だったのです。しかし、この経験があればこそ、二人は、心のリミッターを振り切ることに成功したのでした。「一旦全てを失ってしまうと、もう何も怖いものがなくなるものなのよ」。
そして1974年に「ブロンディ」を結成しました。1977年に二人のロックバンドが有名になったとき、デボラ・ハリーはすでに33歳でした。
【ブロンディ伝説】デボラ・ハリーのファッション史
- 【ブロンディ伝説】デボラ・ハリーのファッション史
- 第一章 デボラ・ハリーという女
- 第二章 愛してほしい|デボラ・ハリーのベレー帽
- 第三章 デニスに夢中|ダサいボーダー水着とレッドブーツ
- 第四章 恋のピクチャー|ディスコ・ドレスと元祖ボディコン
- 第五章 ハンギング・オン・ザ・テレフォン|リアル・ギズモ
- 第六章 ハート・オブ・グラス|デボラ・ハリーの覚醒
- 第七章 サンデー・ガール|トムボーイ・ルック
- 第八章 ドリーミン|カットアウトロンパース
- 第九章 涙のユニオン・シティ|デニムオンデニム
- 第十章 コール・ミー|アメリカン・ジゴロ
- 第十一章 銀河のアトミック|金髪核弾頭投下
- 第十二章 夢見るNo.1|革ジャンとミリタリールック
- 第十三章 ラプチュアー|世界初のホワイトラップ
- 第十四章 誘惑の楽園|ジェダイの騎士デボラ
- 第十五章 バックファイヤー|エイリアンの恋人
- 第十六章 フレンチ・キッス・イン・ザ・USA|ヴィデオドローム
- 第十七章 愛に魅せられて|スティーブン・スプラウス
- 第十八章 スウィート・アンド・ロウ|サヨナラ・シュガー
- 最終章 マリア|ルイ・ヴィトンになった女
